かつての三浦四十八郷の総鎮守として、その由緒とたたずまいを今日に伝える諏訪大神社の創建は足利義満の頃の康暦2年(1380)で、三浦氏の三浦貞宗が古谷山(こややま)横須賀城(長峰城)の城口に当るこの地に、信州の諏訪大社より上下の両諏訪明神を勧請したことに始まる。
江戸時代の初期に、三浦一円の農政を管掌した代官、長谷川三郎兵衛により、農漁業の守護神を祀る神社にふさわしく大改修された。
現在の社殿は、明治24年(1891)に建て替えたもので、第二次世界大戦で社殿も傷み、昭和55年(1980)の創立600年に併せて改修し今日に至る。
諏訪神社は全国各地に多く鎮座しており、御祭神は健御名方命(タケミナカタノミコト)が普通だが、諏訪大神社は商業漁業の神である事代主命(コトシロヌシノミコト=えびす様)もお祀りしているのが大きな特色でもある。
■ 健御名方命(タケミナカタノミコト)
事代主命(コトシロヌシノミコト)の弟でニ柱共に大国主命(オオクニヌシノミコト)の御子である。健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族の祖神であったが、後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神ともされた。
元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬された。
もと出雲の国から周防(山口県)に行き、伊勢から美濃を経て信濃に入り、蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。上諏訪から勧請し、ご神体矢に神霊を祀ってある。
■ 事代主命(コトシロヌシノミコト)
事代主命は、北九州博多から出発し丹波・丹後地方を範囲とした漁猟部族の蜑族(たんぞく)の祖神である。
蜑族は、航海と漁猟を得意とした部族なので、自然と貿易によって富裕となった。この祖神・事代主命はえびす様ともいって漁業や商業の守護神として祀られるのはそのためである。
蜑族は、富山から姫川を遡って上高地の下の旧湖水で生活していたが、後にサイ川をさき切ってここを干潟して農地としたので農業神としても崇敬された。
ここから諏訪湖に移って水上生活をした部族である。
事代主命は、下諏訪から勧請して、ご神体玉に神霊を祀ってある。
健御名方命、事代主命は、日本先住民族・蝦夷を征服して、出雲という部族連合国家を建設し、日本古代国家の基礎を築いた方である。
諏訪大神社の歴史
横須賀の往古は山と海との間に延びた長い砂浜に数戸の草屋根を葺いた一漁村であった。
それが桓武天皇の皇子葛原親王が国家鎮護のため東国に下って以来子孫が定住し、地方の豪族として勢望を築いた。
その一族三浦党を起こすや、近国の人士多数が傘下に群集し、横須賀及び近傍はたちまち賑やかになった。
当時信州諏訪神社は、北条家の崇敬篤く、三浦家ではその奉幣使としてたびたび代参した。
その時従った武将で横須賀を知行していた者が信州上諏訪を勧請して来て領内の現所に祀り、武運長久繁栄の守護神とし盛重に祭祀を修めていた。
従って上にならい領内近郷の崇敬もまた篤かった。
後に子孫の三浦貞宗が康暦2年3月、祖先の志を継いで改築し祭祀を盛んにしたが、三浦党滅亡後は郷民の手で直接に経営維持されていた。しかし、乱世戦国時代に入って、このことも止むなく隠滅し社頭全く荒廃してしまう。
慶長8年(1603)徳川家康に将軍宣下して慶長11年(1606)、平和な世になったので、代官・長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、社殿・境内の大改築を行い、農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。(寛永8年・享和2年の版文による)
その後、村の民衆もまた神社や境内を整備し祭祀を怠らなかった。(歴代の棟札文による)
明治以来も崇敬者は変らず、その結果、明治6年(1873)12月、明治政府より村社に列格され、明治40年(1907)4月30日、幣帛供進指定社となった。
続いて昭和3年(1928)5月21日、郷社に昇格した。
更に昭和17年(1942)、内務省神祇院十七総第二号通牒をもって、県社昇格の内許をうけ氏子で指定改築工事中に終戦となった。
戦後宗教法人のもとで、昭和22年5月16日、氏子会が発足し神社を氏子の手によって維持し今日に至っている。
諏訪大神社の歴史
※参考・・・・神奈川県神社庁/神社検索より
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