福島正則屋敷
現在の高井寺にあった屋敷は、東西57間半(約104.5m)南北40間(約72.7m)で、四方に高土塁を築き、塁の外に空掘を巡らしてあったという。現在東北隅に高さ2m、長さ19mの土塁が残存している。
福島正則は豊臣家恩顧の猛将であり、関ケ原の際は東軍に属して五十万石を得て広島城主となった。しかし、徳川家の謀略によって無断改修のかどにより元和五年(1619)領地没収となり、信州川中島2万石、越後魚沼郡2万5千石の捨て扶持を与えられ、この地に蟄居、出家した。正則の在館年数はわずか数年であったが、領内の検地を行い、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くした功績が大きいとされる。寛永元年(1624)7月13日、64歳で病死した。
正
則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしたが、故あって位牌は領内雁田の岩松院に納められ、廟所も同寺境内に設けられた。正則の遺骸は幕府
の検使が到着する前に荼毘に伏され、その咎によって福島家は三千石に格下げとなり、このことから正則自刃説も出ている(『現地説明板』『大猷院殿御実
紀』)。
[出典]
http://utsu02.fc2web.com/shiro189.html
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