2014年12月15日月曜日

戸隠信仰と徐福


戸隠信仰の謎を解くキーワードは三つある。(1)クズ(九頭龍神)(2)ゲシャク(牙笏)(3)アマテラス(天照大神)だ。

 まず九頭龍神から。クズとは九頭一尾の龍のことをいう。

 かつて、ひょんな縁から、中国人女性2人の信濃路ガイドをしたことがある。まず戸隠を案内した。日本人の信仰や価値観・文化を理解してもらうには「戸隠で蕎麦を食べるのが一番」と考えた。

 2人は、北京大学の教授夫人の黄さんと医師夫人の華さん。大学で日本語を専攻し、選ばれて留学してきた。日本語はふつうの日本人よりずっと上手で、まったく手が掛からない客人だった。
 
 「戸隠を理解するには、小林一茶という俳人の名句《権現や どの耳で聞く ホトトギス》に尽きます。権現とは戸隠では地主神と呼び、もともとこの土地に最初からいて崇拝された最高の神様です。頭が九つもある全能の神です」

 「まあ、どうして九つも頭が?」
 「9は数字の最上位ですから、最高という意味です」
 「どの耳で聞く-というのは、一茶のユーモアですか」
 「そうです。9頭ですから耳の合計は2×9で18になります。ホトトギスは世界で一番短い詩=俳句の基本的精神で自然鑑賞の象徴です」
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 その晩、酒席になって、互いに気心が知れてくると、中国のインテリは中華思想を隠さない。パンフレットやガイド本を見て「戸隠のドラゴンは位が低いですねえ」と黄さんが言い出した。

 「えっ、どうして?」
 「指が3本しかありませんね、これは安物のドラゴンです。中国では、指が5本あって、もっぱら皇帝は文様や飾りに指5本のドラゴンを使います」

 後日、日本の龍の画集をチェックしてみたら、皆3本指だった。

 これでは、戸隠の九頭龍神が3本指であるのも仕方ない。「なぜ5本指なんです?」と聞いたら、「黄金の玉は、5本の方がしっかりつかめます」と言う。

 ちなみに龍はヘビを神格化したものだ。中国へ渡った仏教では雲や雨を自在に操る力を持つとされた。次第に人面蛇身となり、日本に渡来したときには、恐竜に近い体躯と相貌になった。特に戸隠の龍は頭が九つにもなった。

  「頭は戸隠にありますが、その胴体は伸びて伸びて、鳥居川となり、千曲川・信濃川になり、信越国境を越えて妙高市に行けば、胴中権現(どうなかごんげ ん)=神社になり、その下半身は越後の西蒲原郡の平野にまで伸びています。クズは毎朝、一升飯を供えられます。九頭ですから合計9升も食べる。毎朝の用足 しもハンパじゃない。大小混ざって消防ホースが水を吹き出すようなものです。"蒲原郡は肥入らず"と昔からいわれています。肥料なしでも毎年豊作! 蒲原 の人たちは、秋の取り入れが終わると真っ先に新米を戸隠に奉納します。"クズさまの肥料のおかげで今年も豊作をありがとう"というわけです」

 「まあ、なかなかのストーリーですね。水の大切さも学べます。して、信濃川の長さはどのくらいですか」
 「確か、367キロ。日本一の大河です」
 「ホーホッホホ、たった300キロですか。中国の長江は6300キロですよ。長江を龍とすれば、信濃川はミミズですねえ」

 まったく、これだから、中華思想は度し難い。クズはミミズだそうな。しかし総延長2400キロもの万里の長城を造った民族だ。抗弁しようもない。

  次は、戸隠神社の宝物について。「重要文化財の牙笏(げしゃく)は唐の都で加工され、日本に渡来したものらしい」と説明すると、2人の夫人は「その通り」 と満足顔。ところが「戸隠山の開山者は役行者(えんのぎょうじゃ)です」と、木像写真(宝光社・地蔵堂蔵)を示すと「それはおかしい」という。

 両夫人は、広辞苑の徐福のくだりを読め-と電子辞書を差し出した。

  「秦の始皇帝の命で、東海の三神山に不死の仙薬(せんやく)を求めたという伝説上の人物。日本に渡来、熊野または富士山に定住したと伝える」とある。三神 山とは「東方絶海の中で、仙人が住むと伝えられた蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三山の総称」とある。ちなみに蓬莱山とは富士山の別称だ。

  始皇帝は不老長寿を願った。「不老の薬は東方の海中の霊山にあるそうです。私が探しにいきましょう」。徐福は若い男女3000人を引き連れて出航、日本を 目指した。上陸地点は日本各地に伝承が残る。最も有力なのは、和歌山県南部の新宮市熊野だ。今日、徐福寺があり、徐福の墓まで建立されている。

  「徐福は始皇帝の権威をバックにした東方開発のフロンティアです。医薬の知識を持ち、稲作技術も知り、列島の隅々まで探検しました。もちろん富士山も登頂 したのです。中央の山岳地帯はことごとく、戸隠も探索したに違いありません」-。両夫人は、こちらが目を丸くするような説を語り続けた。

 「徐福が日本の開発者であるという説は、江戸時代は庶民を含めて常識だったのではありませんか。小布施町の北斎館で、北斎の肉筆画を拝見したことがあります」と華さんが付け加えた。

 後日、北斎館の八城和彦館長に尋ねた。

 「ええ、ございます。当館自慢の肉筆の一つです。富士と対面して驚く徐福の手足の瞬間の動きを見事にとらえた力強い作品です」。左上に掲げたのが、その『富嶽と徐福』だ。北斎87歳の作品。東西の故事に詳しかった北斎ならではの構図だ。

 中国が何でも最初で一番とする中華思想にはかなわない。戸隠の開山が中国人とする説は何の証拠もない。しかも徐福が渡来した時代は紀元前200年前後の始皇帝の時代だ。戸隠の開山者・役行者はずっと後代の奈良時代、7世紀後半の人だ。

 さて、徐福はどうなったのか? 彼は「不老の仙薬は見つからなかった」と始皇帝に報告して、同行者3000人と共に日本に住み着いた。先住の人々の中に融和していったと推測されている。

 徐福が明治維新以降、太平洋戦争敗戦まで日本で無視されていったのも故ないことではない。中国を侵略するさなかに、日本人の祖先の一人に中国人がいるというのは都合が悪いことだった。そして、日本史から徐福伝説が消えた。

  最近、中国の徐福研究は熱を帯び、新しい発見が相次いでいる。学会が結成され、日中の研究者が参集し、論文が発表されている。始皇帝の時代とは、群雄割拠 の中国が初めて統一されて、政治体制が整備され、文化の華が開いた時だ。そのころ、わが日本、信州はまだ弥生時代だった。

 中国の夫人2人から何を言われようと、「ごもっとも」としか言えないのだ。日本は中国の掌中にあったといってよい。

 戸隠信仰も広い視野で見ると新鮮で、なかなか面白い。今年は7年に1度の戸隠神社例大祭が行われる年だ。「足もと歴史散歩」の「寺社巡り」は、しばらく「戸隠神社」について考察する。

[出典]
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0561.html

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