2014年12月18日木曜日


 諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池 があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下 町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖 に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉 を生んだ。
 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度もはげしかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時 代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見してこれを定めた。小和田村 (諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者の翌年の苗の支給を求めた。


[出典]
http://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm

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