2014年12月4日木曜日

信州りんご発祥の地


長野市の長沼地区は市内でも有数のりんご産地で、たくさんのりんご園が広がる見事な景観となっています。長沼地区のりんごは、明治三十年代 (1897~06)赤沼に導入され、津野、穂保、大町へと広まっていきました。赤沼公会堂の玄関前に「信州りんご発祥の地」と刻まれた石碑が建立されてい ます。
 今回は、長沼地区の中で早くからりんご栽培に取り組んだ赤沼の先覚者の一人、小林傳之助(こばやしでんのすけ)を紹介します。
 傳之助は、明治8(1875)年、相之島村(現須坂市)の中島家に生まれました。成人して近衛兵(このえへい)になり一時期東京で暮らしたこともありま した。その後、赤沼の小林茂兵衛(もへえ)の娘・ゑ(え)つと結婚し、小林家に入りました。茂兵衛の家は分家に出て二代目でしたが、本家が代々名主を務め る家だったので、広い農地を所有していました。
 赤沼は長沼村でもっとも水害の危険が大きいところで、農業経営は不安定でした。千曲川の堤防や、浅川の改修工事がおこなわれなかった大正時代までは、降 雨のたびに千曲川が氾濫、水が浅川へ逆流し、上流からの浅川の水は排水されなくなり、この低湿な水田地に湛水してしまったのです。そのため農業経営の主体 は畑作で、耕作地は千曲川の自然堤防などの微高地でした。明治13(1880)年発行の『長野県町村誌』によると、桑・大小麦・綿・栗・大豆・菜種・藍・ にんじん・ごぼうなどが栽培されていました。明治中期には養蚕業が盛んになったので、桑が主要作物になりました。
 明治29(1896)年に千曲川大洪水がおこりました。地面から約2.0~2.6メートルの高さまで水位が高まり、傳之助の家も被害に遭いました。今も小林宅には地面より2.6メートルの高さにあたる壁の一部に浸水の跡が残っています。
 このような洪水のときは、桑畑も一様に泥水をかぶって桑の葉は使えなくなってしまい、飼育中の蚕を捨てなければならなかったのです。42・ 43(1909・10)年と二年続いた大洪水のときは、四齢(れい)まで育てた蚕を捨てざるをえませんでした。度重なる養蚕の被害で、それに変わる作物の 導入が求められていました。
 傳之助は、桑に代わる作物として、40(1907)年ごろに東京の学農社より倭錦(やまとにしき)というりんごの苗を取りよせて植えました。傳之助が、 わざわざ遠い東京から取りよせるほどりんごに関心があったのは、りんごの木が水害に強いことを知っていたからです。傳之助の家の庭には、縁つづきのアメリ カ在住者からもたらされたりんごの木が植えてありました。そして、傳之助は水害のときに、そのりんごの木が無事だったことを目の当たりにしていたのです。 そのりんごの品種は不明ですが、酸味が強く、皮や色がきれいだったそうです。
 ここで、傳之助とアメリカの縁者との関係について記します。傳之助の本家はみんな江戸時代の後期に江戸に出て商人になりました。傳之助の妻(ゑつ)も東京で生まれています。義母の兄弟が金属貿易業を営み、アメリカへの行き来がありました。
 傳之助は、東京から取りよせた倭錦の苗を河川敷の二反歩ほどに植えました。当時は桑畑の中へりんごを植えたりしたので、桑に消毒がかからないようにするなど、大変な苦労がありました。
 長沼村で消毒を最初に導入したのも傳之助ら赤沼の人たちでした。薬剤はボルドウ液や硫黄合剤がほとんどで、年に五回ぐらい消毒しました。作業の集中化や 桑畑への消毒の害を減らすために散らばっていた園地を主に二カ所にまとめました。そのために、倍ぐらいの土地を手放したそうです。そして、消毒のためのポ ンプ小屋を作り、そこから広い範囲の消毒ができるように設備を整えました。桑の葉に消毒液がかからないように、当時サーカスが使う大きなテントの古いのを 桑にかぶせたという苦心談もあります。大正時代はりんごの木を剪定することなく自然のままに成育させたので、木の高さが五メートルにもなるものがあり、こ のために消毒のホースが届かなくて、竹ざおを継ぎ足すという苦労もありました。大正末期に青森の津島竹五郎が赤沼を訪れ、剪定の指導会を行ないました。傳 之助と長男の賢三は自らも青森を訪れ、剪定の必要性を痛感し技術の習得に努めました。その甲斐あって、木の高さを低くすることができ、消毒などの作業もら くにできるようになりました。
 昭和16(1941)年に倉庫と作業所を兼ねた小屋を改築しました。倉庫の壁は厚い土壁と木の壁の二重にし、その間に断熱材としてもみ殻を入れられるようにしました。この土壁・土間の倉庫はりんご貯蔵に適しているので、今でも使われています。
 明治後半から大正初期にかけての販売先は、善光寺参詣人が主でした。大正末期から昭和初期にかけ、県外へも協同で、あるいは個人で豊野駅から出荷できる ようになりました。14(1939)年の伝票を見ると、東京の高野フルーツパーラー・横須賀食品市場・大阪青果市場・神戸市中央卸売市場などに、紅赤(国 光・こっこう)・印度(いんど)・スターキングなどを出荷しています。高野フルーツパーラーの査収は厳しかったようで、15(1940)年の査収の結果に よると、「・・・色合いは昨年よりも見劣りする。選果が不十分なので、なお一層の選果を望みます。・・・」という手紙が届けられています。
 赤沼でのりんご栽培は順調でしたが、その他の事業においては苦労が続きました。
 大正13(1924)年、台風で落果したりんごをボイルして一斗缶に詰める工場と燻蒸(くんじょう)して外国に輸出する工場を五人の仲間とつくりまし た。燻蒸の事業は一年で閉め、ボイル工場は昭和10(1935)年ごろまで続けましたが、うまくいかず、借金が残ってしまいました。
 また、旧朝鮮(現韓国)の大邱(てぐ)に土地を買い、釜山(ぷさん)に住んでいた妻の妹夫婦にりんご栽培を委託したり、作業員を派遣したりしましたが、収穫にならないうちに終戦になって手放すことになってしまいました。
 傳之助はりんご栽培の先覚者というだけでなく、広く海外にも目を向け、合理的で効率的なものの考え方ができた人。毎朝園地を回って歩き、腐乱病対策のために一本一本の木を見て歩くなど、こつこつと仕事をする人でありました。
 60才になると、りんご栽培の仕事は息子の賢三に任せ、隠居生活を送りました。一日に一度豊野まで歩いて行き、魚やお菓子を買って帰り、孫にお菓 子をくれて、孫の喜ぶ顔を見て喜んでいたそうです。庭いじりが好きで、庭の手入れを毎日しっかりやっていました。昭和17(1942)年四月、心筋梗塞で 亡くなりました。小林傳之助、享年67才でした。
監修: 湯本 軍一(法政大学史学会評議員)
執筆: 高木 元治
[出典]
nosai-hokushin.or.jp/human/長沼(赤沼)のりんご栽培の先覚者 ~小林傳之/

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