会津藩士とリンゴ 余市を代表する産物と言えば「リンゴ」というのが北海道人の連想ですが、リンゴが余市に根付くまでには、明治初期に本町に移住してきた会津藩士の苦難の歴史がありました。 (このコーナーは、福島県会津若松市とのホームページ相互リンクを記念して掲載しました。) 藩士団、余市へ 明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まりました。同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後オタルナイへと到着しました。 到着後しばらくは兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に 入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、最終的に余市へ移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた明治4年4月のことでした。 |
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開拓と血判書 明治4年正月、隊長宗川茂友以下193名による開拓の決意を秘めた血判がおされた御受書がされ、同年4月には先発隊が余市入りし、7月までにほぼ全員の 移住が終わりました。彼らは余市川上流の川東に4ヶ村(黒川村)、川西に2ヶ村(山田村)を開き、開拓を行ないました。入植地には子弟教育の為の日進館、 講武館が設けられ、会津からとりよせた漢籍を使用した日進館は余市町の学校教育の草分けとなりました。入植前後には開拓使から請われて官公吏、教師、警察 官となるなど、転出された方もいました。 |
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実った緋の衣 開拓次官黒田清隆はアメリカから顧問としてケプロンを招聘、ケプロンは明治8年、リンゴやナシ、サクランボなど果樹の苗木を配布しました。4年後には山 田村の赤羽源八宅の品種名19号、金子安蔵宅の同49号が日本で始めてのリンゴとして余市に結実、赤羽宅の19号は「緋衣(ひのころも、ひごろも)」と命 名されました。 緋衣の名は、幕末時に京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)に対して、その勤皇の心を認めた孝明天皇から下賜された「緋の御衣」の赤と、会津 戦争終結の際、西軍に城を明け渡す式を行った場に敷かれた緋の毛氈の赤が、勤皇の心を持ちながら逆賊とされた会津の人々の心に深く刻まれていたからといわ れています。 |
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