2014年12月3日水曜日

信濃国人の景勝家臣の経緯


 はじめに上グラフを見てください。
 これは上杉景勝の時代に、貫高制から石高制へ改める際に作成された『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』から算出したものになります(禄高 3千石未満は「その他」として省略)。「緑色」が大国但馬守(兼続の実弟で、以前は小国と名乗っていた)や甘粕備後守など越後国の重臣で、「赤色」が直江山城守兼続、「黄色」が信濃国の者達になります。これを見て気付くこととして、上杉家は越後国といった印象が強いのですが、上杉景勝の時代では25%程度が信濃国の者達で構成され、直江山城守を中心に越後と信濃の者がほぼ均等にバランスを保つ体制であったことに気付きます。上杉家臣の中でも直江は5万3千石と群を抜いていますが、No2は須田の1万2千石、No5で島津6千石と、他の上杉家の古参者を差し置いて重用されていました。「須田、清野、島津、芋川、市川」?と、聞いたこともないような人物が居並んでいますが、須田が須坂市、清野が長野市松代・東条・西条など、島津が長野市赤沼から豊野など、芋川が飯綱町など、市川が栄村から野沢温泉村などと、皆が現在の長野市より北にあたる地域の小土豪でした。彼等がどのような経緯で上杉家臣となったのかは、主に次の3つに分かれます。
①武田晴信の侵攻に対して反抗し、敗れて上杉を頼った者。
②武田と上杉の抗争に巻き込まれ、最終的に上杉へ降った者。
③武田・織田と仕え、織田信長の死後に上杉へ降った者。
彼等が歩んだ3つのルーツをまとめようとすると、それこそ真に直江兼続を中心に書かれた『天地人』の内容を表すことになります。
 
 遡ること16年前の、上杉謙信が越中国に出陣した際に作成された『上杉家中役方大概』天正5年(1577)において信濃諸将を探すと、御一門衆で「山浦源五」、御評定衆9人のうちで「島津玄蕃」、御奏者番4のうち「島津淡路守」、御組大将衆12人のうち「桃井主税助・高梨源太郎」、御番預衆8人のうち「岩井備中・井上将監」、御将足軽大将7人のうち「芋川勝八」、御先足軽大将16人のうち「市川惣四郎・栗田刑部少・清野高平」、御手眼預9人のうち「小田切半左衛門・諏訪部次郎衛門・清野市兵衛」、御長柄奉行6人のうち「大室源四郎・大滝土佐、清野因幡」、御大目付2人のうち「須田相模守」、御横目付6人のうち「岩井源蔵・西条全人」、道奉行2人のうち「栗林さふ助」と、最低21人を見出すことができます。さすがに御宿老や奉行衆は上条山城守や本庄美作守など越後国衆の者達で占められていますが、山浦国清(村上義清の子)が上杉一門の扱いを受ている点など注目され、その外の者達も評定や目付など中堅クラスの実務職に深く関わっていました。これにより、既に天文22年(1553)川中島の戦いから24年が経った謙信の時代から、信濃諸将が何らかの形にせよ、上杉家の家臣として深く利用されていたことが分かります。
 御一門衆として登場してくる村上源五国清については、実のところ詳細が分かっていないのが現状です。しかし通説によると、村上国清は村上義清(元亀4年1573死亡)の子でしたが、上杉謙信の養子の形式により山浦上杉家の名跡を継ぎました。軍役帳でも他の御一門衆を差し置いて上杉景勝の次に列記され、天正7年(1579)には景勝から「景」字を頂戴して山浦景国と名乗りました。景勝は上条入道宜順と山浦景国だけに「殿」を付けて呼んでおり、明らかに他の年寄や家臣達とは別格に扱われていました。このように、謙信時代に主力とまで言えなかった信濃諸将が、上グラフの景勝時代になると、より重要な地位(年寄など)へと上昇しています。それがどのような経緯でなったのか、歴史の中で見てみましょう。
 ※但し、上杉家の歴史については多くの情報が発信されているので、ここでは要点だけを述べさせてもらいます。不明な方は『天地人』を御覧になるか、他のサイト等を参照してください。
 

[出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/yomono5.html


0 件のコメント:

コメントを投稿