2014年10月28日火曜日
さて、7月27日に判物を受けた義宣は、29日に直ちに伏見を発って秋田に向かい、江戸を経て安東秋田氏が常陸宍戸に国替えになった後に、空き城となった土崎湊城に先ず入りました。
湊城は、秋田県土崎駅の駅前にある神明社境内を本丸とする海に近い狭小の小城でした。
これは、安東氏が日本海交易で利を得ていた事から水軍を重視した為に生まれたものであって、太田や水戸の様な地形ではない為、また、佐竹は然程海を重視していた訳ではなかったので、使える場所ではありません。
其所で、直ちに新しい城地を探し、久保田の神明山(千秋公園台地)を適地として決定、1603年5月から築城を開始して、1604年8月28日に湊城を破却した後、新城に移ることになりました。
以後、1867年まで久保田城が佐竹の居城となった訳です。
神明山は、元々手形山に連続する段丘の末端でしたが、古い時代に手形の辺りで旭川の浸食を受けて切断し、三段段丘からなる独立の台地となりました。
これらの地は三森山、三岳山、矢留山、保戸野村山等の名称で呼ばれていましたが、これは本丸南西隅の御出し、北西隅の御隅櫓、八幡山の三箇所がそれではないかと言われています。
旭川は、仁別川とも呼ばれ、所によって添川、泉川、保戸野川と呼ばれたりしています。
この川は、太平山を源流として仁別、添川を流れ、転封当時は手形から北の丸下の中島の底地を流れ、神明山の西裾すれすれに南流し、穴門の堀から上長町、中長町、下長町の辺りを経て、穀堀の辺りから現在の旭川の河道になっていたと考えられています。
そして、築城時には、手形から中島土手の外側を廻り、通町橋から五丁目橋附近までへと付け替えられています。
神明山東部には長沼、手潟、赤沼と言った連続する広大な低湿地が広がっていました。
これは、旭川の古川が堰き止められて水を湛えたものです。
また、古い旭川は手形の辺りを浸食して手取山と神明山とを切断し、其の儘神明山の東を流れ、長沼を作って神明山南部の平野を斜めに流れて、現在の旭川の下流に達していました。
内町の中にある大堀、上堀、下堀はそれを整備したものと考えられています。
手潟は後に手形となり、旧練兵場の北部3分の2と秋田大学の構内にかけてが独立した沼地であり、南部は泥炭湿地で長沼と分離しており、これが手潟であろうと考えられています。
更に長沼の東北部には赤沼があり、太平や下北手から手形への通行を遮断する形になっていました。
現在の秋田大学医学部付近がその一部であり、赤沼から太平方面に抜ける道路は、藩政期後半にこの沼に水を貯える為に造った堤防と思われ、赤沼は、長沼に近い遙か南方まで広がっていたのではないかと考えられています。
[出典]
http://nemuihito.at.webry.info/200905/article_21.html
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿