2014年10月26日日曜日



梁川城(やながわじょう)は、福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡にあった日本の城平山城)。一説には文治5年(1189年)に伊達氏伊達郡入りとともに築城されたともいうが、文献上明確なのは室町時代応永33年(1426年)以降である。一方、発掘調査で発掘された遺物の最も古いものは、伊達氏3代伊達義広1185年 - 1256年)または4代伊達政依1227年 - 1301年)のころと推定されており、このころには築城されていたと考えられる。
伊達氏は源頼朝奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって16代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[2]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった[3]。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)、あるいは南奥州の要として栄えた。
伊達氏の居城が桑折西山城、さらには米沢城に移った後も梁川城は領内の重要拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていた。
なお伊達政宗の初陣は伊具郡宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。
鎌倉時代初期に築城された。鶴ヶ城と呼ばれることもあるが、現在ではこの呼称はほとんど知られていない[1]
梁川中心市街地の東側にある茶臼山から西北西方向に張り出した高台の上に築かれており、城下町である平地との標高差は10数メートルになる。梁川城の北側には曲輪や堀が築かれ(中井戸)、西側は段丘の急斜面、南側は広瀬川と広瀬川の浸食によって作られた断崖、そして東には金沢堀と茶臼山という天然の要害となっている。奥州仕置によって伊達氏岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、蒲生・上杉時代にはかなり大きな改修があったと推測できる。北三の丸の高い土塁、広い堀などもこの時代の増築と考えられる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに絡んで、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われた(10月6日の松川の戦いなど)。10月7日、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町東大枝)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めたが、梁川城の抵抗も強く、横田大学の内通も発覚したため、伊達軍は攻撃を中止して北目城へ帰った。江戸幕府成立後も伊達郡は引き続き上杉氏領となり、梁川城には上杉氏の家臣が置かれた。
寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子を迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡は没収され、天領となった。この時、梁川城は廃城となった。しかし、城の一部はその後も陣屋として使用されている。江戸時代中期以降の梁川は天領となったり、2度にわたって梁川藩松平氏松前氏)となったり、あるいは会津藩磐城平藩松前藩の飛び地となったり、めまぐるしい。そのため、梁川に関する江戸時代の資料は他藩に残されているものも多い。





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