ネットで検索していたら、長野市松代にも「山室氏の城、
霞城」があることがわかった。相当な山城で、山頂まで辿りつくのは困難だが、山頂付近には石垣も残っているそうな。こちらの山室氏は、「天正10年(1582)に織田方の森長可から知行を安堵され、その後、越後の上杉景勝に属した。そして、上杉景勝が会津移封となった時、山室氏も会津に移り、1,050石の知行を得た」という。会津は、鎌倉時代は三浦一族の「芦名氏」が支配し、伊達正宗に滅ぼされ、秀吉の命で蒲生氏郷がはいり、さらに上杉景勝。関が原の後、四国松山から加藤嘉明。そして保科と、次々と領主が変わった。そして芦名の時代も、蒲生氏郷の家臣にも「山室」姓がいました。会津の南、只見川の上流に「山室」という地名があり、私が所持している『芦名時代の分限帖(家臣録)』の中に「山室」姓がいるのです。私の母方の「山室」は、「高遠から」というのがはっきりしているので、保科が会津入封以前にも、会津の「山室」氏がいたとなると、その人たちは、どこへ行ったのか。
[出典]
http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/c/05341e7a5ed2e64a30b1a7dfd091f7c8
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