2014年10月28日火曜日

戦国北信濃国人名辞典


[出典]
http://www.douban.com/group/topic/40332847/



芋川親正【いもかわちかちか(1539~1608)】

芋川正章の男。官途は越前守。通称右衛門尉。1578年、武田勝頼と長尾景勝との間で「甲越同盟」が結ばれると、奥信濃国にも一時的な平穏が訪れ た。1582年、武田勝頼が討死すると北信濃四郡(埴科郡、更科郡、高井郡、水内郡)は、織田信忠麾下の森長可が領した。森長可が、禁制の発布や降伏した 北信濃国人衆に所領安堵の沙汰などを行ったが、芋川親正は森長可の元には参陣しなかった。芋川親正は長沼城主島津忠直らと連携して、森長可に従わず長尾景 勝に属して、領内の一向宗門徒、反織田家を掲げる信濃国人衆を煽動して兵8,000余りを集め大倉城で蜂起した。一揆勢は、稲葉貞通の守る飯山城を包囲し たが森長可勢の反撃を受けて壊滅、長尾景勝を頼って落延びた。織田信長が「本能寺の変」で討死すると、長尾景虎勢は再び北信濃四郡に侵攻、芋川親正は牧之 島城4,486石を領し、深志城主小笠原貞慶に備えた。1598年、長尾景勝が会津に転封となると、白河小峰城6,000石を領した。


長沼島津長忠【しまづながただ(15??~1536)】

上水内郡長沼城主。1524年、高梨政頼は長尾家を後楯として信濃に帰国し、中野に本拠を構えて北信濃におけるみずからの領主的立場を強めていっ たのである。これに対して島津家は、村上家を後楯として反高梨の旗幟を明確にしていた。1536年、島津貞忠が病没すると島津長忠が継ぎ兵庫介を称した。

長沼島津忠直【しまづただなお(1534~1604)】

島津長忠の男。官途は淡路守。通称月下斎。村上義清、高梨政頼らと共に武田晴信の北信濃侵攻に抵抗した。1557年、武田晴信は高梨政頼を攻撃、 高梨政頼は中野城から飯山城に落延び、長尾景虎に支援を求めた。このとき、島津忠直も長沼城から大蔵城に居を移した。島津忠直は長尾景虎勢の加勢のため水 内郡鬼無里を夜襲した。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行っ た。長尾景虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田 晴信勢が盛り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃 復帰は断たれた。1582年、武田勝頼の討死後、北信濃の領主となった森長可の麾下に入ることを強要されたがこれを拒み、芋川親正と共に反抗したが敗れ て、長尾景勝を頼り越後国へと落ち伸びた。1582年「本能寺の変」後、森長可が退去した事により長尾景虎が北信濃を所領に組み込んだ際に長沼城に復した がまもなく、島津家の家督を嫡男島津義忠に譲った。

長沼島津義忠【しまづよしただ(15??~1598)】

島津忠直の男。1596年、父島津忠直の隠居により長沼島津家の家督を相続した。1598年、長尾景勝の会津移封の際にはそれに従って信濃国を去り、陸奥長沼城を領した。1598年、島津義忠が死去したため、岩井信能の岩井利忠を島津義忠の娘婿にして家督を継承させた。

長沼島津家臣【しまづけかしんだん】

長沼島津規久。  


大岩須田満国【すだみつくに(1513~1564)】

高井郡大岩城主。須田満国は村上義清と共に武田晴信の北信濃侵攻に対抗した。1553年、武田晴信に敗れ村上義清と共に長尾景虎を頼った。以後は 長尾景虎に仕えた。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行った。長 尾景虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田晴信勢 が盛り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃復帰は 断たれた。

大岩須田満親【すだみつちか(1526~1598)】

須田満国の男。長尾景虎没後は長尾景勝に仕えた。須田満親は信濃の一向宗と親しかったため、長尾景虎からは北陸地方の一向宗との交渉役として用い られることが多かった。河田長親の病没後、越中方面の総指揮官となって松倉城に入り、佐々成政との戦い越中各地を転戦した。1583年、魚津城主となる が、佐々成政の攻撃を受け城を明け渡して退去し、海津城代に転じた。長尾景勝領の北信四郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡)の押さえに任じられた。 1585年、真田昌幸が松平元康と対立して長尾景勝方に転じた際には、真田昌幸との交渉役を務め、真田昌幸の次男真田信繁を人質として預かった。「第一次 上田城の戦い」で、真田昌幸が松平元康勢に攻められると、尾長尾景勝勢の指揮を執った。1598年、嫡男須田満胤(室は直江兼続妹)が、直江兼続を総奉行 とする伏見城舟入普請において不手際が有ったとして本庄顕長、高梨頼親ら多くの家臣と共に改易され、長尾家から追放された。


大岩須田家臣団【すだけかしんだん】

船見兵庫、山田左兵衛門、岩井勒負、島津孫右衛門、真野主水、青柳源太左衛門、浦野左衛門、須田助衛門、多良沢十兵衛、大峡弥一郎、吉江与太郎。 



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