天正16年(
1588年)、景勝に従って上洛し、同行した
直江兼続・
色部長真と共に
豊臣姓を下賜された。
[2]「文禄三年定納員数目録」には、海津城主・知行高12,086石と記され、上杉家中では兼続に次ぐ大身であった。
しかし慶長2年(
1597年)、秀吉の命により
松阪城主
古田重勝らが北信濃の
検地に送り込まれてくるなど、
秀次事件以降噂されていた上杉氏の
会津移封への動きが現実のものとなりつつあった最中、嫡男・
満胤(妻は直江兼続妹)が、兼続を総奉行とする
伏見城舟入普請において不手際が有ったとして(人夫徴発の割当について兼続に不満を訴えた為という)
本庄顕長・
高梨頼親ら多くの重臣と共に改易され、上杉家から追放されてしまった
[3]。
慶長3年(1598年)正月、上杉氏の会津移封が正式に通達される。2月、満親は海津城にて自害した。享年73。次男の
長義が後を継いだ。長義は
陸奥国伊達郡梁川城代となり、20,000石(他に同心給分3,300石)を知行した。
- ^ 矢田俊文他編『上杉氏分限帳』より。「御家中諸士略系譜」(『上杉家御年譜』)では文禄3年(1594年)上洛後、浪人とある。
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