2014年10月21日火曜日


天正16年(1588年)、景勝に従って上洛し、同行した直江兼続色部長真と共に豊臣姓を下賜された。[2]「文禄三年定納員数目録」には、海津城主・知行高12,086石と記され、上杉家中では兼続に次ぐ大身であった。
しかし慶長2年(1597年)、秀吉の命により松阪城古田重勝らが北信濃の検地に送り込まれてくるなど、秀次事件以降噂されていた上杉氏の会津移封への動きが現実のものとなりつつあった最中、嫡男・満胤(妻は直江兼続妹)が、兼続を総奉行とする伏見城舟入普請において不手際が有ったとして(人夫徴発の割当について兼続に不満を訴えた為という)本庄顕長高梨頼親ら多くの重臣と共に改易され、上杉家から追放されてしまった[3]
慶長3年(1598年)正月、上杉氏の会津移封が正式に通達される。2月、満親は海津城にて自害した。享年73。次男の長義が後を継いだ。長義は陸奥国伊達郡梁川城代となり、20,000石(他に同心給分3,300石)を知行した。


  1. ^ 矢田俊文他編『上杉氏分限帳』より。「御家中諸士略系譜」(『上杉家御年譜』)では文禄3年(1594年)上洛後、浪人とある。
 

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