2014年10月24日金曜日


染殿神社

宮城郡利府町赤沼字宮下21(平成19年7月22日)
 この神社は三陸自動車道北を通る、県道8号線沿いの赤沼の畔の高台に鎮座しています。三陸自動車道開通に伴って最近整備されたのか、とても綺麗に整備された神社でした。

 土祭神:赤沼大明神(大戸辺命、太苫辺命)、垂水神、染殿姫命
 例祭日:春季例祭・4月、秋季例祭・11月
 由緒:昔、仁寿年間(850年頃)、摂政藤原良房公の姫君が、わけあって世隠れの身となり身重の体で、はるばる旅枕を重ねてこの地にたどりつき、里人に一夜の宿をと申し出られました。里人たちは身につけている衣装はきらびやかで、頭髪には宝冠が光っていて、あまりにも身分が高い様子に返事も出来ませんでしたが、ある老夫婦のはからいで、近くの経塚のお堂にて一夜の宿を借り、その晩急に産気づき、玉のような女の子を無事安産しました。実は、この姫君は文徳天皇の后という身分で、この赤ん坊は清和天皇の妹君の儀子内親王でした。
 その後里人たちの情けで、ささやかながらも雨露をしのげるような日当たりの良い処に草葺の仮屋を作ってもらい、そして朝な夕な食物をみつぎ、おかげで赤ん坊はすくすくと育ちました。姫君は里人の深い愛情に心から感謝し、京で習い覚えた手芸、手習いの文字などを教え、そればかりでなく着物にする布の染め方などを里の若い娘たちに授けるようになりました。それは、この山近くに野生する「刈安草」を材料として色々な色彩まで出すと言う全く女神のような姫君で、里の娘たちはみな喜んで教えを受けました。
 やがて、二年も過ぎ、赤ん坊もよろよろ一人歩きをするまでに育った頃、姫君は都へ帰るときとなり、はるかに京へ旅立たれるその後姿を見送り、里人たちはみな涙を流したといいます。
 のちにこれらの事を振りかえり、あの姫君の教えは神様の教えであったと里人たちは感激し、その御霊をこの地に祀ったのがこの染殿神社であると伝えられています。(「染殿神社の由来」より)
 この様な由縁から、染殿神社は近世まで「刈安明神」又は「染草明神」などとも呼ばれていました。
 「刈安草」とは、イネ科の植物で、茎や葉を乾燥させ、煮詰めると黄色い染料となるので、 キハダと並ぶ古代からの黄色の染料の代表の一つです。黄八丈の染料になる コブナグサ の別名もカリヤスですが、刈安草が本家です。良く似たものに ノガリヤス 、 キリシマノガリヤス があります。(「四季の山野草」より)

[出典]
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/miyagi/miyagigun/somedono/somedono.html


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