- 天正10年(1582)
- 2・2
- 木曾義昌、武田勝頼に背き織田信長に通じる。
- この日勝頼、義昌討伐に諏訪郡上原へ出陣する。
- 2・6
- 織田信忠の先鋒河尻秀隆ら、木曾・美濃両口から信濃に進攻、小笠原信嶺の伊那郡松尾城落城。
- この日同郡滝沢要害の下条信氏、支族下条九兵衛の離反により要害を追われる。織田軍、寺社を焼く。
- 2・14
- 信長の将森長可ら、木曾から伊那に入る。飯田城の坂西織部・保科正直ら、敗走する。
- 2・16
- 木曾義昌、鳥居峠で武田方今福昌和を破る。
- 織田信忠軍、伊那郡大島城日向宗栄らを敗走させる。
- 2・28
- 勝頼、甲斐に撤兵、新府城を焼いて逃走する。
- 3・2
- 織田信忠、降伏に応じない伊那郡高遠城将仁科盛信(勝頼弟)を総攻撃して攻略し、盛信を斬る。
- 3・3
- 高島城諏訪頼満、織田信忠に降伏する。深志城将馬場信房(二世)、木曾義昌に降伏する。
- 3・7
- 織田信忠、陣を上諏訪から甲府に移す。
- 3・9
- 織田信忠、甲斐古府で徳川家康と会見する。
- 上杉景勝、岩井信能に、海津城以北の諸士を服属させた功を賞する。
- 3・11
- 武田勝頼父子ら、甲斐田野で自殺する。
- 3・12
- 武蔵鉢形城主北条氏邦、西上野の真田昌幸に、武田氏敗亡のうえは北条氏直に臣属するよう促す。
- 3・14
- 信長、美濃岩村から伊那郡浪合に着陣、ついで勝頼父子の首級を実検し、これを飯田にさらす。
- 武田の将依田信蕃、駿河田中城を家康に明け渡す。
- 3・19
- 信長、飯田・大島・飯島・高遠をへて、この日諏訪郡上諏訪法華寺に着陣し、家康と会見する。
- 3・20
- 信長、木曾義昌に安曇・筑摩二郡を加増する。
- 3・29
- 信長、旧武田領の国割を行う。
- 駿河を家康、
- 甲斐と諏訪郡を河尻秀隆(鎮吉)、
- 上野と佐久・小県郡を滝川一益、
- 高井・水内・更級・埴科四郡を森長可、
- 伊那郡を毛利秀頼に与える。
- また甲斐・信濃の国掟を定め、関所を撤廃し道路を普請させる。
- 3・
- 信長、信濃平定地の各所に禁制を掲げる。
- 4・2
- 海津城主森長可、皆神山熊野権現に禁制を掲げる。ついで更級郡康楽寺など北信諸寺に掲げる。
- 4・5
- 芋川親正ら牢人・土民・百姓らの川中島一揆、信長の将稲葉貞通を飯山城に攻める。
- ついで森長可、長沼城を攻めた一揆勢を壊滅させ、大倉古城に逃れた一揆勢を破り女・童ら千人余を斬りすてる。
- 森長可、旧海津城将小幡昌虎に所領を安堵する。
- ついで葛山衆など北信諸将士に旧領を安堵する。
- 4・
- 信長、このころ甲府善光寺如来を岐阜に移すと伝える。
- 5・27
- 森長可、越後に進攻する。上杉景勝、越中天神山から春日山城に兵を引き、警固を固める。
- 6・2
- 本能寺の変。ついで森長可、猿ケ馬場峠を越えて逃れ、滝川一益は小諸をへて本領伊勢長島に帰り、河尻秀隆は甲斐で土豪一揆に殺される。
- 信濃を争奪する上杉・徳川・北条三氏の攻防が始まる。
- 6・10
- 諏訪頼忠、千野・両角氏ら諸士を糾合し、織田勢を追い高島域に入城、諏訪郡の支配を回復する。
- 6・12
- 小笠原長時の子貞慶、家康の支援を得て松本還住を決意し、筑摩郡後庁勘兵衛に忠節を促す。
- 6・13
- 上杉景勝、森長可にかわって北信四郡を掌握、この日以後北信諸士多数に安堵・宛行状を出す。
- 6・16
- 旧上杉の将直江兼続、島津常陸介に、信濃から連れてきた譜代の家臣を招集し長沼に帰住させる。
- 上杉景勝、安曇・筑摩二郡へ進出を計り、この日安曇郡仁科の小岩嶽城などを市川信房に宛行う。
- 6・20
- 家康により遠江二俣に隠まわれていた依田信蕃、家康の命をうけ、この日小諸城に帰り、佐久郡将士に家康への服属を働きかける。
- 上杉景勝、市川信房に、飯山城明け渡しを賞し、海津城将春日信達に対し軍忠を促すよう求める。
- 6・22
- 北条氏直、滝川一益を追い碓氷峠に出陣する。
- この日北条氏政、伴野善九郎に、佐久郡内山・平賀などを宛行う。
- 7・2
- 上杉景勝、小笠原長時の弟貞種を支援し深志城の木曾義昌を追う。
- 長時の子貞慶、この日同城奪取のため旧臣らに勤仕を求め、ついで三河から筑摩郡塩尻に帰り二木豊後らの出迎えをうける。
- 7・6
- 飯島・片桐氏ら伊那諸士、下条頼安と家康に服属を誓う。
- ついで木曾義昌・小笠原貞慶・小笠原信嶺らも家康に従い、信嶺ら、伊那郡を平定する。
- 7・12
- 北条氏直、小県郡海野に出樽、真国昌幸が出仕する。
- 依佃信蕃、氏直に攻められ小諸城から芦田小屋に移り、この日家康、.柴田康忠に赴援させる。
- 7・13
- 海津城将春日信達、上杉景勝に背き真田昌幸を介して北条氏直に通じ、この日発覚して殺される。
- 上杉景勝、島津忠直を水内郡長沼城将とし、忠直・同忠泰らに本領と在城分の所領を宛行う。
- 高島城諏訪頼忠、北条氏政に通じる。この日氏政、頼忠に所領を安堵し、徳川勢に対抗させる。
- 7・14
- 徳川家康、その将酒井忠次に信濃統治を命じ条目を渡す。
- ついで忠次、諏訪郡乙骨に着陣、乙骨太郎左衛門を使者にたて、諏訪頼忠に服属を迫る。
- 7・17
- 小笠原貞慶、深志城に入城するついで木曾義昌の反攻を撃退する。
- 7・22
- 酒井忠次、三河勢・小笠原信嶺.・下条頼安らを率い、諏訪頼忠を高島城に囲む。
- 7・26
- 家康、依田信蕃に諏訪・佐久耐郡を宛行う。両郡で徳川・北条軍の攻防がつづく。
- 8・3
- 酒井忠次ら、北条氏直の大軍来攻のため高島城の囲みを解き諏訪郡乙骨に引く。
- さらに甲斐新府城に引き、同国若神子の氏直軍と長期間対陣する。
- 8・5
- 上杉景勝、村上景国を海津城に還し、北信支配の条目を渡す。
- このころ景勝、北信四郡を鎮定し、海津城将村上景国・長沼城将島津忠直に千曲川東西を統轄させ、諸城に北信諸将士を配置する。
- 景勝直轄地の設置は少なく間接的な支配体制をとる。
- 8・9
- 家康、木曾義昌に、滝川一益から預かった小県・佐久郡の人質返還を求め、旧領安堵を約する。
- 8・12
- 家康、下条頼安に、小笠原信嶺・知久頼氏領を除く伊那郡を宛行い、飯田城を固めさせる。
- 8・30
- 家康、木曾義昌に、木曾と安曇・筑摩両郡を安堵する。
- ついて義昌に誓紙を送り協力を求める。
- 9・4
- 上杉景勝、仁科盛信に安曇郡池田・松川郷などの地を宛行い、府中への進出をめざす。
- 9・7
- 小笠原貞慶、上杉方の日岐城将日岐(仁科)盛武.攻撃に出陣する。ついで落城させる。
- 9・28
- 家康、依田信蕃らに説得させて真田昌幸を帰属させ、この日昌幸に上野箕輸領・諏訪郡を宛行う。
- 10・19
- 真田昌幸、北条方の小片郡禰津昌綱を攻める。
- 10・20
- 諏訪頼忠、武田氏の伝馬制を踏襲し、郡内大工の伝馬役を旧規どお臥免除とする。
- 10・27
- 小笠原貞慶、倉科朝軌に、安曇郡内の地を宛行い、松本町に移住させて間屋を勤めさせる。
- 10・29
- 家康・北条氏直、若神子で講和、真田領上野沼つる田と北条氏支配の佐久郡・甲斐都留郡を交換し、家康の娘を氏直に嫁がせることを約し、この日人質を交わす。
- ついで真田昌幸、家康から離反する。
- 11・20
- 上杉景勝、水内郡飯縄権現に、同郡上野・小鍋・千田・市村・入山・広瀬などの地を寄進する。
- この年
- 村上景国、埴科郡満泉寺を再建し、南北朝期制作の石造釈迦如来坐像を本尊とすると伝える。
- このころ
- 水内郡の長沼浄興寺・布野長命寺・平出願生寺など、真宗寺院の越後移住があいつぐ。
2014年10月28日火曜日
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