2014年10月21日火曜日


「御家中諸士略系譜」によれば、文禄3年(1594年従五位下に叙されたという[3]。「文禄三年定納員数目録」では、黒滝城主・2277石とされ、会津時代は5500石を知行した。慶長3年(1598年)8月、景勝の命により、岩井信能・広居忠家とともに謙信の遺骸を会津に移葬した。 米沢移封後は1833石を知行し、御側勤として景勝に近侍した。慶長17年(1612年)には、直江兼続安田能元・岩井信能・水原親憲平林正恒ら重臣たちとともに十七箇条の家中法度を制定している。慶長19年(1614年大坂冬の陣に従軍、元和3年(1617年)の景勝の上洛にも供奉した[4]。 元和9年(1623年)の景勝死後、その子上杉定勝にも引き続き仕え、江戸留守居役に抜擢されている。しかし寛永元年(1624年)長男山三郎が命に背いて出奔したために定勝の勘気を被って改易となり、亀岡西来院に蟄居した。
家督は次男の家久が継いでいる。

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