2014年10月30日木曜日


士族授産

明治維新で禄を失い困窮した士族を何らかの産業につかしめる政策をいう。

 明治7年までに斗南から会津に帰国した士族は2,682戸、10,378人に達した。会津士族の生計の道は極めて狭く、たとえば福島県官吏の職(郡書記・訓導・巡査など)の職を得たものはわずか260名ほどにすぎなかったという。

 会津士族の困窮は深刻で、9年の政府からの下米1万8千石も目前の生活資金に消えてしまったのがほとんどである。

 県典事中条政恒による会津士族の安積開拓地大量移住計画も、移住者わずか30余名という失敗に終わり、本格的な授産事業は県令三島通庸の登場まで待たねばならなかった。

 明治15年、三島は授産金196,365円を資本金とし、養蚕・織物・陶器・漆器などの業種に約3千戸を従事させた。これは会津三方道路開削と一対の施策で、地方の特殊性に応じた国庫補助を用いて政治状況を転換させる地方経営であった。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-shi.htm



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