高遠には、藤沢郷、黒河内郷がありました。この2郷は代々諏訪大社の領地で、戦国時代の頃には、諏訪氏一族の高遠氏が統治していました。
高遠頼継は、諏訪大社の総領家を自分の物にしたいと考え、甲斐国の武田晴信(信玄)と諏訪大社下社の金刺氏に働きかけて、共同で総領の諏訪頼重を攻撃しました。諏訪頼重が倒された後、諏訪地域は武田晴信と高遠頼継に分割統治されました。ようやく諏訪大社総領の地位を手に入れた高遠頼継でしたが、諏訪のほとんどが武田氏の領地となったことに反発して、今度は武田晴信と争いました。
天文11年(1542)武田軍は天竜川沿いに攻め下り、9月28日福与城(箕輪町)の藤沢頼親を攻め、降伏させました。翌29日には、板垣信方が上伊那と諏訪境になる有賀峠付近を制圧しています。天文13年(1544)藤沢頼親は再び武田氏に反旗を翻し、荒神山城(辰野町)に立て籠もりました。武田軍は荒神山城を攻撃しましたが、高遠頼継との連合軍に破れます。高遠軍はこの勝ちに乗じて、諏訪地域まで出て、あちこちに火を放ちました。
天文14年(1545)4月11日遂に武田晴信が甲府を出陣し、15日に杖突峠を越えて、高遠へ攻め込みました。17日高遠頼継は逃亡し、高遠城が落城しました。20日武田軍は、そのまま福与城を攻撃しますが、府中の小笠原長時の援軍などがあって落ちませんでした。6月10日ようやく藤沢頼親は、人質を出して武田晴信に降伏しました。この落城の際に、高遠頼継に属していた保科正俊(江戸時代における高遠藩の祖、及び会津藩の祖)が武田へ降っています。
数年後、降伏していた高遠頼継は甲府にて切腹させられてました。このようにして上伊那地域はことごとく武田氏の手に落ちました。
[出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html
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