芋川親正【いもかわちかちか(1539~1608)】 芋川正章の男。官途は越前守。通称右衛門尉。1578年、武田勝頼と長尾景勝との間で「甲越同盟」が結ばれると、奥信濃国にも一時的な平穏が訪れた。1582年、武田勝頼が討死すると北信濃四郡(埴科郡、更科郡、高井郡、水内郡)は、織田信忠麾下の森長可が領した。森長可が、禁制の発布や降伏した北信濃国人衆に所領安堵の沙汰などを行ったが、芋川親正は森長可の元には参陣しなかった。芋川親正は長沼城主島津忠直らと連携して、森長可に従わず長尾景勝に属して、領内の一向宗門徒、反織田家を掲げる信濃国人衆を煽動して兵8,000余りを集め大倉城で蜂起した。一揆勢は、稲葉貞通の守る飯山城を包囲したが森長可勢の反撃を受けて壊滅、長尾景勝を頼って落延びた。織田信長が「本能寺の変」で討死すると、長尾景虎勢は再び北信濃四郡に侵攻、芋川親正は牧之島城4,486石を領し、深志城主小笠原貞慶に備えた。1598年、長尾景勝が会津に転封となると、白河小峰城6,000石を領した。
[出典]
http://www.douban.com/group/topic/40332847/
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