2014年10月27日月曜日


島津左京亮なる者について、「古城の風景」は次のように考察している。


上杉景勝の芋川親正宛の書状(「上越市史別編2上杉氏文書集1」2688号)で、以下のものです。
「其表仕置ニ付而、使者到来、絵図・条目如健聞者、大野田之地再興ニ相極候条、為其警固衆申付、嶋津左京亮差遣候、(中略) 
   三月七日         景勝 
        [芋川越前守殿] 
       右同人へ」
 この書状からしますと、景勝は、親正にある方面での築城を命じ、それに沿って親正が適地を選定して絵図などを添えて報告したようで、その結果大野田砦の再興を認め島津左京亮を援軍(検使か)として送ったことが分かります。ここにでてくる芋川親正は、牧之島城に城将として在番して深志の小笠原貞慶に備えていたようです。また、島津左京亮は、『上越市史』は長沼城代島津忠直の嫡子義忠としています。ただ、『秀吉の野望』の中で平山優氏は、島津泰忠(赤沼島津氏)としており、こちらの方が正しいようです。。島津左京亮は、虚空蔵山城から派遣されたものと思われ、この戦線では派遣軍の検使とし活躍しています。

[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/folder/238844.html


0 件のコメント:

コメントを投稿