2014年10月26日日曜日


今回の記事に副題を付けるならもう一つの島津氏といったところか。
島津忠直は信濃国・長沼島津家の国人で島津長忠の子。
通称として喜七郎、淡路守と伝わる。

戦国時代、信濃国長沼城を本拠とし、村上氏、高梨氏らと共に武田信玄の侵攻に抵抗したが、
1557年に本拠を離れ上杉家の家臣となる。
1582年、武田氏滅亡・本能寺の変後の織田氏退去により、長沼城を任される。
その後、家督を嫡男の義忠に譲り、慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封の際にはそれに従って信濃を去り、
陸奥長沼城を与えられた。
同年、嫡男・義忠が死去したため、岩井信能の子・利忠を義忠の娘婿にして家督を継承させた。
1604年8月1日、死去。


以下に長文になるが、もう少し詳しく信濃における島津氏を見ていこう・・・。

中世、北信濃の水内郡(上水内郡)長沼を領した国人島津氏は、
薩摩の戦国大名、島津氏の同族である。
島津氏初代である島津忠久は、1185年信濃国・塩田荘地頭職、
ついで南九州島津荘総地頭職に任ぜられ、
その後に薩摩・大隅・日向守護職に補任された。

1221年には信濃国太田荘地頭職を与えられ、同年の承久の乱での活躍をもって、
一時越前国守護職にも補任されたという。
1227年に忠久が鎌倉で死去した後は嫡男である忠時が後を継ぎ、
次男忠綱は越前守護代となり越前島津氏の祖となった。

その後、忠綱は指宿郡、知覧院を与えられ、
その嫡男忠行は1279年、播磨国下揖保郷地頭職に任ぜられ子孫は代々播磨国に居住したという。
指宿郡と知覧院は忠景が継いで子孫はそこで知覧氏を称した。
(武田信玄の信濃侵攻の際、降った赤沼郷島津氏はこの忠景の子孫といわれている)

島津氏は鎌倉時代を通じて信濃各地に所領を有したが、
そこで信濃一宮である諏訪社の祭祀を勤め、
薩摩に諏訪社が勧進されたり、
上井氏など諏訪系の武士が島津家中に見えるのもそこに由来するものであるという。

やがて南北朝対立の頃には、
島津宗家は薩摩・大隅を本拠とし、
信濃との関係が希薄になるにつれ信濃に残った庶子家が独立化を始めた。
そうして信濃の島津氏は長沼を支配し国人へと成長していったが、
その長沼島津氏の初代は島津国忠であると考えられている。

南北朝時代末期には、島津国忠は村上氏、高梨氏らと結んで、
信濃守護である斯波氏と対立し、斯波義種を守護の座から逐うなど力を持っていたとされる。
斯波氏に代わり小笠原長秀が信濃守護となって新たに信濃に入部してくると、
長秀は信濃一国の統治に着手したが、やがて村上満信や島津国忠などは長秀と対立するようになり、
1400年両者は武力衝突に発展し(大塔合戦)、戦いは国人側の勝利で終わった。

その結果、一時期、信濃国では国人が勢力を大きくしたが、
後に幕府の討伐作戦などによって徐々に室町幕府体制が浸透していった。
そうして1425年に小笠原政康が信濃守護に補任されると信濃の国人たちは小笠原氏に従うようになった。 
1440年の結城合戦では、小笠原政康が信濃の軍勢を率いて出陣したが、
このとき信濃勢として島津氏は高梨氏、須田氏、井上氏、海野氏など有力国人らと並び出陣した。
このことは信濃の島津氏が国人として高梨氏らと同等の力を有していたことを示している。

戦国期にさしかかり、清忠の嫡男である貞忠の頃に長沼島津氏は戦国乱世を迎えた。
領地のある北信濃は地理的に越後に近く、
1477年に越後守護の上杉房定が半国守護になったことで、
越後上杉氏の影響を受けることが多くなっていった。
また、室町時代の中ごろから高梨氏が次第に勢力を拡大するようになり、
1463年には上杉氏の軍を破った高梨政高が中野に進出する足掛かりを作り勢力拡大していくのだが、
このことは北信濃の長沼島津氏の領地支配にも多大な影響を与えることになったのである。

やがて越後において、1507年に守護代である長尾為景が、
上杉定実を擁して守護権力排斥クーデターを起こすと、
それにより弟の房能を殺された上杉顕定が、
長尾為景・上杉定実を追い払うべく、
関東の軍勢を率い越後に出撃しそれらを破り、越後を支配下においた。

翌年、勢いを盛りかえした長尾為景が顕定勢を各地で破り、
上田長森原の戦いにおいて上杉顕定を討ち取ったが、
それに際し高梨政盛は長尾為景に与力し、上杉顕定を討ち取る活躍を見せたのである。
このように高梨氏は長尾氏との関係を深めつつ
国人の立場から北信濃の領主へとその立場を築いていったのである。

他方、高梨氏の勢力拡大を危惧する島津貞忠ら北信濃の国人は、
長尾為景の専横に対し反感を抱いた越後守護・上杉定実の実家である、
上条上杉氏らを恃んで兵を挙げると、
村上氏の力添えを受けて上杉定実を支援し、
長尾氏の支援を受ける高梨氏と対立した。

こうして、北信濃に勢力を拡大していた高梨氏は一転して四面楚歌に陥ることになったのであるが、
長尾為景が上条氏らの乱を制圧したことにより形成は逆転し、
長尾為景は北信濃に圧力をかけ始める。
これにより事態に窮した島津貞忠は、
永正十六年に高梨氏を頼んで長尾為景に和議を結び弟の元忠を越後に送った。

1524年頃には高梨政頼が長尾氏を後楯として北信濃に帰国し領主的権力をより強めていったが、
これに対し島津氏は、村上氏を後楯として、
かろうじて勢力を維持するほかない状況に陥っていたのである。
その中で1536年に貞忠が死去すると長忠が後を継ぎ、やがて長忠の子である忠直が継ぐが、
中信濃を支配下におく守護小笠原氏や北信濃に勢力を誇る村上氏などの二大勢力、
これに南信濃の木曽氏、諏訪社祝の諏訪氏、
そして越後上杉氏、甲斐武田氏らの抗争に翻弄されながら、
島津忠直はよく戦国乱世の真只中を生き抜いたのであった。


やがて戦国時代も中頃になると信濃は武田の侵入を受け、その攻撃に敗れた小笠原氏、村上氏らは、
高梨政頼を通じ越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を求めた。
しかし、武田氏の信濃侵攻は衰えず、長沼の島津氏も含めて信玄の攻勢に窮した北信濃の諸将らは、
越後の長尾景虎の出陣を願ったので、
こうして有名な長尾景虎と武田晴信による川中島の戦いが始まるのである。 

しかし、数度に渡る戦いも決着がつかず、武田軍は高梨政頼を攻撃、
政頼は中野から飯山に逃れ長尾景虎に救援を求めたが、
武田軍の度重なる北信濃侵攻の前に島津忠直も長沼城を退き、大蔵城に移ることになった。 
結局上杉謙信の力をもってしても北信濃回復はならず、
合戦の終了をもって武田の信濃支配が確定し、
島津忠直らの北信濃復帰の望みは完全に断たれたのであった。

その後、上杉謙信、武田信玄と死去したが、
武田氏は織田の大軍により滅亡し北信濃は織田氏の支配する所となった。
上杉氏は「御館の乱」を経て景勝(謙信の甥)が家督を継いだが、
島津忠直と義忠の父子は景勝に味方して戦功をあげ、
特に義忠は三度の感状を受けるなど上杉家中で活躍した。 

やがて本能寺の変が起こり織田氏の勢力が信濃から去ると、
北信濃に侵攻した上杉景勝に従い島津忠直は長沼城に復帰を果たした。
長沼城主に返り咲いた島津忠直は河北の郡司や犀川北一円の支配を任せられるまでに重用され、
上杉氏、徳川氏、北条氏が三つ巴になっての草狩り場となった信濃での争いにも参陣し、 
1583年上杉景勝と真田昌幸との虚空蔵山での戦い(義忠は軍目付として出陣)で戦功をあげ、
翌年の信濃旧領奪回を図る小笠原貞慶との戦いでも上杉方で義忠はおおいに奮戦した。 

やがて中央では織田家の羽柴秀吉が台頭し、上杉景勝は秀吉の麾下に属した。
その後、1598年に入り、景勝は会津への移封を命じられて越後を去ると、
島津忠直も長沼城を去って会津に同行し、改めて岩代長沼で知行を与えられた。
この年、嫡男の義忠が病死したため、岩井信能の二男利忠を養子に迎えたという。

関ヶ原の合戦では西軍の上杉景勝は戦後会津120万石から米沢30万石に転封されたが、
忠直らはなおも景勝に従って信夫郡小倉に移り、まもなく忠直は死去した。
そこで子孫は米沢藩重臣として続いたという・・・。

あまりにも薩摩の島津氏が有名な為、
長沼島津氏の影は薄いが、
上杉家中にあっては重用されるなど、
働きや忠節には当主からは高い評価を受けたのであろう・・・。
同族であるから、薩摩の島津氏同様に優れた才覚を持ち合わせていたのではないかと思う。
ただ惜しむらくは、信濃の群雄割拠、そして武田の強大な力の前に、
戦国大名化するほどの力を蓄えることが出来なかったことだろう。

[出典
http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/?mode=m&no=179


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