武田信玄の死と共に、武田家も次第に没落していきました。
織田信長は、長篠の戦いで武田勝頼を破って後は、武田氏配下の豪族を次々と調略し、武田晴信が上伊那地域を占領して37年の月日が経った天正10年(1582)信濃国に侵攻を始めました。下伊那地域より侵攻した織田軍は、次々と山城を落とし、武田氏に従っていたほとんどの豪族が降伏しました。武田氏に虐げられてきた上伊那の豪族達は、戦わずに降伏し、織田軍は無人の野を行くが如く高遠まで到達しました。
武田信玄の息子である仁科五郎盛信だけが、高遠城に立て籠もり、織田軍と激戦を繰り広げました。高遠城の激戦は語り継がれるものですが、甲斐の武田勝頼の救援も得られず落城しました。
伊那地域は、織田信長に命じられた毛利秀頼が治めるようになりましたが、数ヶ月後に織田信長が本能寺で死亡すると信濃国は、東から北条氏、北から上杉氏、南から徳川氏が侵攻し、領地の奪い合いの場となりました。
三河国と接する伊那地域には、早くから徳川家康が酒井忠次を信濃国の統括者として派遣され、上伊那地域も勢力下に納めました。
[出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html
0 件のコメント:
コメントを投稿