2014年10月31日金曜日



飯山、長沼付近の所領について
安政、勝之が拝領した北信濃の地の多くは、越後・高田藩(新潟県上越市)四十五万石で家康の六男であった松平忠輝の領地であったが、素行が悪いという理由で改易になり、それに伴う大名の配置替えで二人には千曲川の左岸の地が与えられた。 
 信 州水内郡の内、一万二千五百十八石余りが長沼藩領になった。寛永十一年十一月十二日、駿府城番を務めていた勝之が病死し、嫡男勝年はすでに早世していたた め次男勝友が二代藩主になり、同時に勝年の子勝盛に五千石を分地して長沼居館に住まわせ長沼知行所とした。寛永十九年に勝友が二十七歳の若さで亡くなり、 幕府は長男勝豊(八歳)に家督相続を許し、次男勝興(七歳)に三千石を分地させ旗本として赤沼村(長野県豊野町)の新館に住まわせ赤沼知行所とした。
  正保三年(1646)九月、勝盛が嗣子がないまま二十三歳で病死したため改易され、長沼知行所は収公された。その際長沼藩領との部分的な差し替えが行なわ れたようである。正保郷村帳では長沼知行所に属していた三才村・石村・神代村が長沼藩領に組み替えられている。その反面、長沼藩領から現在の信濃町、牟礼 村の多くの村々がはずされている。この事は後の寛文七年(1667)十一月の松代・長沼領五十八カ村の黒姫山入会山論の訴状にも書かれている。「佐久間大 膳殿(勝之のことであるが、実際は勝豊の代)御 知行の内十五か村、二十一年以前替地に成られ、御領所に罷りなり候」この二十一年前というのが正保四年にあたる。同時に赤沼知行所の村々も差し替えられた らしく寛文十年(1670)の訴状に正保郷村帳と異なる千七百石余りの村々が出てくる。一万石になった長沼藩は、三代藩主勝豊が貞享二年(1685)八月 に死去、次男勝茲(かつちか・十七歳)が四代目藩主となる。しかし、元禄元年(1688)五月十四日将軍綱吉の御側小姓となったが、翌日綱吉の気色にふれ る言動があって逼塞させられ、十八日病と偽り役を辞そうとした事がさらに逆鱗にふれ、改易を申し渡され領地は幕府領に編入され長沼城は破却された。
 一方赤沼知行所も、勝興が寛文四年五月に死去し、実子がなかったため、長沼藩二代藩主勝友の弟で旗本になっていた佐久間勝種の次男盛遠を養子として後を継がした。しかし、天和二年(1682)八月、勝種が罪科に問われ改易
され遠流になった。これに連座して盛遠も改易され赤沼知行所は廃絶されたのである。後に小禄の旗本として残ることになるのだが、長沼藩系の佐久間一族は七十年余りで大名から姿を消すのである。
  そのような長沼藩領は現在の長野県内に比定すると、長野市内の長沼地区を中心にして信濃町、三水村、牟礼村などの千曲川左岸で、防御上長沼城に千曲川の流 れを引き込む改修工事も行なったようで、現在の流れにその痕跡が見られる。新田開発にも熱心で、北国街道周辺に特に多くの新田が開発されたようである。現 在の野尻湖畔にある黒姫山の入会をめぐり、飯山藩との間に度々論争があったようで、特に飯山・佐久間家断絶後にはその回数も増え、幕府をも巻き込む入会山 論を展開したようである。また、赤沼知行所における佐久間勝種、盛遠親子の過酷な治世に対する寛文十年(1670)の「信州水内郡赤沼領惣百姓中訴状」は 有名である。十七か条に渡り領主の非道ぶりを幕府に訴えたもので、その為か後の天和二年(1682)、勝種の遠流と盛遠の改易という結果をもたらす事にな る。
こ こで、当時の過酷な大名の改易(とりつぶし)について述べる。改易は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の大規模な戦後処理に始まり、幕末までのおよそ二百 六十年間に三百六十余家がとりつぶしあるいは減封処分されている。   とくに家康・秀忠・家光の三代のあいだに処分された大名は二百二十四家、没収総高 は一千二百十四万八千九百五十石にものぼり、そのうち百七十五家は外様大名で多くは豊臣系の外様大名である。没収された諸大名の所領は、そのほとんどが徳 川一門の親藩や譜代大名に与えられ、幕府直轄地(天領)や旗本領となったのである。飯山佐久間家の場合も、最期の藩主となった安次がわずか九歳でまさかの 急死、それを生前の家督相続者の届出義務を怠ったとの理由で容赦なく処断したものだった。長沼佐久間家の場合は、徹底的な「賞罰厳明」政策で知られる五代 将軍綱吉の時で、藩主勝茲の将軍に対する不敬との理由だが、綱吉の短気・偏執狂的性格から難癖を付けられたのかもしれず、不運としか言いようがない。播州 赤穂浅野家に対する処置の仕方からも想像が付くようである。改易とは、幕府領への収公目的を第一とする政治的な手段であった気がする。この長沼藩改易の様 子は詳しく史料に残っている。元禄元年五月二十一日城地請取役として飯山城主・松平遠江守忠親が仰せ付けられ、江戸より御徒士目付阿部四郎五郎、井上新左 衛門の二人が出張した。五月二十五日飯山を出立した松平忠親は、途中病気のため神代村にて三夜逗留、二十八日全快して長沼に至り、城地を受け取った。領地 は高井郡新野村御領所陣屋代官・滝野重右衛門へ預けられた。城主・勝玆は丹羽若狭守長次に預けられ、奥州二本松の城中に蟄居させられた。元禄四年正月二 日、二十三歳の生涯をそこで閉じたのである。この時江戸より検視として御徒士目付石崎甚兵衛、畦柳弥一兵衛の両人が二本松まで出張した。勝玆の妻は母方の 叔父、本多備前守忠将(母の兄)へ預けられ、江戸八丁堀屋敷に移り住み女子を出産、公式の手続きを経て家名仰せ付けられ佐久間左京と称し百五十石賜り、次 の代には江戸駿河台坂口にて屋敷を拝領、三百石に加増された。その後幾多の変遷を経て、秋月長門守麻布屋敷内に居住し、甲府在番を勤め二百石にて維新を迎 えたのである。
  次に前後するが、安政、勝之が近江より信濃の地に移封された経緯をもう一度詳しく述べる。元和二年、松平忠輝の除封処分によって、高井郡の堀直重、小笠原 忠知、幕府直轄地を除いた川中島四郡が空き、ここが新たに入封した松平忠昌、佐久間安政、同勝之、近藤高政、河野氏勝などの所領と井上新左衛門、酒井忠 利、稲垣忠左衛門などが管轄する幕府直轄領とに分割された。
飯山藩佐久間安政領は現在の長野県飯山市と下水内郡全郡(栄村)、上水内郡内の神代の一部と舟竹、福王子、芋川、倉井、赤塩、古海、柴津、熊坂、野尻、柏原、浅野、大倉(信濃町、三水村、牟礼村、長野市の一部など)を含んだ地域である。
 その治世では、真宗寺・大聖寺(佐久間家の菩提寺)・英岩寺・光蓮寺・常福寺・慶宗寺等の寺領を安堵せしめ、新たに移転してきた西念寺・称念寺・西敬寺・妙専寺・蓮證寺・忠恩寺などにおのおの寺領を与え、今日の飯山の寺町を作ったのである。
二 代藩主安長の頃、幕府の宗教政策により北信濃の修験道は聖護院別当となった勝仙院が管轄し、伊勢・熊野・富士・白山・愛宕・三島等諸山の先達を務めること となった。安長は領内の修験を取り締まる年行事職を勝仙院に委ね専から修験寺院の庇護に当たった。この頃飯山の愛宕山権現は小菅大聖院末であったが、著し く荒廃していた。それを郭伝房に再興させ、領内修験寺を保護した。
  寛永十三年には、太田村大坪の新地寺岡に真宗寺を戸狩村より移建、柏原明専寺を芝野へ移し、宿場町の整備を行なっている。飯山八幡社、諏訪社、飯綱社はじ め南条、上倉、奈良沢、瀬木、静間等の神社に領地を寄進したり、千曲川の川欠が激しいので伊勢神宮に社領を寄進して祈祷をさせている。
  江戸城修築の折には、叔父長沼藩主・佐久間勝之や小諸藩主・松平忠憲と共に土井利勝の手に属し、江戸城惣廓の石塁総坪四万四千五百余坪の中玄関内前門虎口 ならびに西城石垣を築いたのである。また、勝之は上野東叡山寛永寺の建立にあたり諸大名と共に寛永八年、石造り大燈篭一基(お化け燈篭と言われ現存してい る)を奉納している。
  また高井郡の天領代官や松代藩主・真田信之などと、木曾山支配の尾張大納言と共に巣鷹の親子を将軍に寄進している。因みに安長の兄で早世した勝宗の奥方は 真田信之の女で死別後松代へ戻り、剃髪して見樹院と称し、倉科村の内三百石を貰い母の菩提を弔うため大英寺を建立した。このような真田家との関係のおかげ で飯山・長沼両佐久間家断絶の折、多くの家臣が真田家に仕官したようで、此の内の一家飯山藩主の名跡を継いだ松代藩士の家より、幕末の洋学者・佐久間象山 が出るのである。
  安政、勝之は幕府中枢との関係にも気を配ったようで、「黒衣の宰相」と言われた金地院崇伝とも親しく交流を交わしていたようである。共に先祖が鎌倉幕府成 立に功があった相模・三浦一族であったことも関係しているのかもしれない。また、飯山二代藩主・安長の奥方は徳川秀忠三臣の一人老中・井上正就の女であ る。京都所司代・板倉重宗とも親しく交流を交わしていたようである。また安政の奥方(後妻)は正親町天皇と織田信長の間を取り持った武家伝奏の公家・勧修 寺晴豊の女であるが、後陽成天皇の武家伝奏・勧修寺光豊の姉にあたる。
 小大名ゆえの涙ぐましい努力のかいもなく、不運にも寛永十五年十二月、三代藩主安次が夭折し飯山佐久間家は断絶、幕府から使番蒔田玄蕃頭定正が一時飯山城目付となり、やがて遠州掛川より松平忠倶が入封して飯山城主となったのである。
 

近江・高島付近の所領について
 安 政・勝之が飯山と長沼に移封される以前、共に近江・高島(現在の滋賀県高島市マキノ、近江今津地域)に所領を持っていたが、それがそのまま飯山・長沼両藩 の飛地となり、代官所が置かれた。飯山藩領としては、マキノ地域の二十村の内十村でその石高は、一万二百八石九斗四升八合となる(寛文検高)。高島郡内の 他の地域(今津、新朝日、安曇川)にも三千七百三十五石余の石高があ
り、合計一万五千石余が高島郡内にあったようである。
 その代官所は中庄村に置かれ、貢租微収と民生に当たった。その代官は佐久間九郎兵衛、小原作左衛門、山本小三郎と三代に渡ったのである。その中庄に安政が慶長年間に建立したと言われる菩提寺幡岳寺がある。
位 牌堂には、安政や叔父にあたる柴田勝家などの位牌が現存し、長谷川派絵師により、臨済宗の高僧・雲居希鷹(うんごきょう)が賛を書いたと思われる安政の肖 像画も伝わっている。しかし、マキノ地域を治めていた飯山藩に関する史料は乏しく、研究もなされていないのが現状である。
 佐久間勝之が治めた長沼藩領は、近江今津近辺に集まっていたようである。
大供、新保、上弘部、藺生、岸脇、井ノ口、中ノ町、浜分、北仰、桂、酒波、深清水(すべて今津地区)などで、領家(浜分村)に陣屋が置かれた。
旗本であった勝之の次男勝興の赤沼知行所領も、北仰、桂、深清水にあったようである。深清水の一部は飯山藩領でもあったが、他にも多くの大名が領地を持ったようである。
近江山路・小川の所領について
 秀吉没後に徳川家康より、近江佐和山近くの小川(小河)を安政が、山路を勝之が与えられた所領である。共に滋賀県東近江市内であるが、地元にはなんら史料もなく、東近江市立博物館の学芸員の方が私の問い合わせに驚いていた事が印象的であった。
 安政が八千石、勝之が三千石領していたらしいが、この地より関が原合戦に参陣しその結果大名になった縁の地である。後の飯山、長沼移封までは領していたと思われるが、それを裏付ける史料は皆無である。陣屋はあったようである。
常陸小田・北条の所領について
 慶長十五年(1610)安政には小田、平沢を勝之には北条それぞれ三千石が加増された。共に茨城県つくば市内である。陣屋が置かれていたようであるが、やはり関係した史料は皆無である。『筑波町史』等に記述があるのみである。
その他の所領について
 旗 本となっていた佐久間信盛の子、正勝(不干)や信勝が所領を持っていた武蔵国児玉・横見両郡(埼玉県本庄市、吉見町)にも安政、勝之の所領があったよう で、不干と連名の元和五年二月発給の文書が現存している。石高など詳細は判明しない。武蔵国(現在の三鷹市内)には旗本柴田勝重の所領があった。勝重は安 政、勝之の甥にあたる。関東には佐久間一族の者たちの所領が点在していたようである。
以 上のように江戸初期の小大名が、幕府の権威が増大する中その所領経営の為に、苦心している様子が手に取るように解る。四百年も以前の事であり、史料不足は 否めないが、せっかく手に入れた武家として上り詰めた大名の地位も幕府の中央集権的政治の都合により、一瞬の内に崩壊してしまう現状を目の当たりにしたよ うな気がする。



[出典]
「佐久間氏関係論考- 4」より
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/417218d8c2bdf8cd3400b7dc68bf3dfc

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