太田荘では代々に渡って御射山や五月会の頭役を務めることになり、さらに諏訪神社との結びつきが強くなっていった流れが見えてきます。
諏訪の資
料に、嘉暦4年(1329)に北条高時が信濃国の地頭に出した「下知状(控)」があります。(諏訪神社ではなく)幕府が直接各地頭に下した「御頭奉仕の輪
番を割り当てた」命令書で、「塩田庄・大田(太田)庄」や、大隅久米三郎・彦四郎(太田庄地頭島津氏の一族)の名が見られます
(中略)
島津家が保護した諏方大明神社 島津家も、続く戦乱で地頭職が有名無実になれば、信濃国や諏訪神社は「話に聞
くだけ」という薩摩生え抜きの当主が誕生することになります。信濃の諏訪神社では北条氏の滅亡と共に大きく衰退した時代に当たりますが、島津家では諏訪神
社への神恩を諏方大明神社に代えて代々受け継がせたのでしょう。島津藩が幕末まで続いたこともあって、諏方大明神社の原初の祭祀形態がそのまま残ったこと
は間違いありません。
[出典]
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/suwasya2/minamikata.htm
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