2014年10月28日火曜日


戦国時代になると、本家筋の井上氏とも争うようになり、一族内も大岩郷と須田郷に分裂して対立するようになる。
戦国時代はどこの家中にも争いが置き、近隣土豪間の対立も激化する。
このため、各土豪はより大きな勢力に従属することで、領域支配の安定をめざした。
この地方においては村上氏が最大勢力であり、必然的に村上氏が周辺の国人層を束ねることになる。
それは結果としては戦国大名化につながる。
しかし、信濃は各盆地が1つの国に近く、各盆地ごとに中心的な勢力が存在するが、国としてまとまる段階には至らないという地理的な宿命を負う。
その中でも小笠原氏と村上氏はニ代勢力であった。
既にこのころ、隣国甲斐では武田信虎が国内統一し、国外への進出を開始する。
 のちの「武田信玄」となる晴信の時代には、信濃にその矛先が向けられる。
中小の大名しかいない信濃は格好の草刈場であり、まず、天文11年(1542)、諏訪頼重を滅ぼし、次いで高遠氏等も滅ぼされた。
佐久地方への侵攻が始まると当然、村上氏と戦うこととなる。
村上氏は小笠原氏と連携し、天文17年上田原で、次いで戸石城で武田氏を2度にわたって破るが、小笠原氏が没落し、連携できなくなった村上氏も武田氏の諜略等により越後に亡命することになる。
須田氏は当然、村上氏に従って武田氏と戦うが、武田氏の謀略の手は須田氏にも延び、須田氏も武田方と村上方に分裂した。
もともと須田氏は2系統に分裂する要素があったので須田郷の須田氏は武田方に、大岩郷の須田氏が村上方に付いた。
村上氏の没落は大岩須田氏の没落も招き、大岩須田氏も村上氏と越後に亡命した。
ここから始まるのが、川中島の戦いであり、常に上杉(長尾)の先方に信濃を追われた、村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親・島津忠直子の名が見える。
しかし、北信濃は武田の手に落ち、彼らは越後で亡命生活を余儀なくされる。
一方、武田氏の使えた者は武田氏の領国支配体制に組み込まれていった。
この一族、2分策は後の真田氏同様、一族存続のための小土豪乱立状態の信濃の土豪に共通の暗黙の了解のもとの本能的な行動であったのかもしれない。
上杉氏に属した須田の棟梁は須田満親である。
しかし、彼は単なる亡命者ではなかった優秀な人材であり、上杉軍の越中攻略の先陣をにない越中の最高指揮官を務め、天正9年(1581)から11年までの間、越中にあって松倉、魚津城の防衛と羽柴秀吉との交渉に知略を巡らし、松倉城の撤退戦を指揮するなど、武勇と知略に優れた武将でもあった。
彼の故郷、北信濃は武田氏の滅亡、次いで本能寺の変により、上杉氏の手に落ち、須田満親を始め村上氏、高梨氏らは思わず故郷に復帰することになる。
この時、武田氏に属した一族はどうしたのだろうか?
須田満親は、天正13年(1585)六月から海津城に任命され、上杉景勝より北信濃四郡を統括し、検断権を含めた幅広い権限を委譲された。
海津城での知行高は12000石であり、上杉家中信州侍衆の筆頭となる。
第1次上田合戦で真田軍の支援に赴いた上杉軍は海津城の須田満親の率いる部隊である。
満親は海津城で死去し、次男長義が後を継ぐ。しかし、慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封に同行しこの地を去る。
須田長義は陸奥梁川城で20000石の知行を得、関ヶ原の戦いに伴う伊達政宗の上杉領侵攻では伊達軍を破る活躍をするが、西軍の敗戦に伴う上杉氏の米沢への減封に須田氏も同行し、米沢に移住、上杉氏家中にあっても重職を勤めている。
以上の須田氏の歴史を見ると、須田城は武田系に属した須田氏の城であったと思われる。
城も古風であり、規模も小さい。近隣の替佐城、壁田城、髻山城のような新規性もない。
川中島の戦いに際して強化された感じも受けない。
おそらく、北信濃が武田氏の手に落ちた段階で廃城状態になったのではないだろうか。

[出典]
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/suzaka.htm


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