2014年10月26日日曜日
大岩須田満国【すだみつくに(1513~1564)】
高井郡大岩城主。須田満国は村上義清と共に武田晴信の北信濃侵攻に対抗した。1553年、武田晴信に敗れ村上義清と共に長尾景虎を頼った。以後は長尾景虎に仕えた。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行った。長尾景虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田晴信勢が盛り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃復帰は断たれた。
大岩須田満親【すだみつちか(1526~1598)】
須田満国の男。長尾景虎没後は長尾景勝に仕えた。須田満親は信濃の一向宗と親しかったため、長尾景虎からは北陸地方の一向宗との交渉役として用いられることが多かった。河田長親の病没後、越中方面の総指揮官となって松倉城に入り、佐々成政との戦い越中各地を転戦した。1583年、魚津城主となるが、佐々成政の攻撃を受け城を明け渡して退去し、海津城代に転じた。長尾景勝領の北信四郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡)の押さえに任じられた。1585年、真田昌幸が松平元康と対立して長尾景勝方に転じた際には、真田昌幸との交渉役を務め、真田昌幸の次男真田信繁を人質として預かった。「第一次上田城の戦い」で、真田昌幸が松平元康勢に攻められると、尾長尾景勝勢の指揮を執った。1598年、嫡男須田満胤(室は直江兼続妹)が、直江兼続を総奉行とする伏見城舟入普請において不手際が有ったとして本庄顕長、高梨頼親ら多くの家臣と共に改易され、長尾家から追放された。
大岩須田満泰【すだみつやす(15??~15??)】
須田満親の兄。
大岩須田長義【すだながよし(15??~15??)】
須田満親の男。1598年、長尾景勝の会津転封に伴い梁川城代となった。1600年「関ヶ原の役」では福島口で伊達政宗勢と戦いこれを討ち破った。
大岩須田家臣団【すだけかしんだん】
船見兵庫、山田左兵衛門、岩井勒負、島津孫右衛門、真野主水、青柳源太左衛門、浦野左衛門、須田助衛門、多良沢十兵衛、大峡弥一郎、吉江与太郎。
[出典]
http://www.douban.com/group/topic/40332847/
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿