2014年10月28日火曜日

永禄11年(1568)
19
堀内右衛門助に対し軍忠を賞し、信州伊那郡富田郷において二百八十貫文を宛行う。山県三郎兵衛尉奉る〔堀内とみ子家文書〕119
佐藤主馬の軍忠を賞し、勝沼郷に三百貫、信州高井郡井上郷にて三百貫を宛行う。山県三郎兵衛尉奉る〔甲州古文書〕
1月吉日
信玄、神座山神主に対し、井之上にて五貫文を寄付させる〔社記・寺記〕
123
箕輪の極楽院に対し、寺領を安堵する。あわせて武運長久を祈念させる〔箕郷長野正夫家文書〕
124
信濃埴科の本誓寺に対し、寺領を安堵する。あわせて野伏二人の出仕を命ず〔信濃寺社文書所収〕
27
国府郷の辻次郎兵衛尉に対し年貢の郷免許を行ない、納分として十三貫四百文を二十日の内に納めるよう下知する〔春日居辻保順家文書〕
215
市川惣蔵に対し、戸万合戦の恩賞として甘利郷にて五百貫文を与えたことを認知し、もっぱら軍役を奉仕するよう通達する〔甲州古文書〕
2
このころ嫡男義信の御殿を破り、その跡に毘沙門堂を建てたという〔甲陽軍伝解〕
32
信州水内郡長沼城にあって、今後越後に侵攻せんとして甲州の墓言宗有力寺院十一ヵ寺に廻文をまわし、戦勝祈願の祈藤をさせる〔一宮・慈眼寺蔵〕
35
信州深志城の普講奉行工藤源左衛門尉に対し工事を督励し、人足動員につき種々下命する〔甲府・入明寺文書〕
3
北信濃に出兵、上杉輝虎の将本庄繁長が信玄に内応する〔甲陽軍鑑〕
321
荻原源八に対し、御重恩により三十八貫文、夫一人を下す〔河野家文書〕
415
信玄の肝煎りで甲府大泉寺の方丈造営を援助し、門前並びに寺領の人足、普講役等を免除する〔大泉寺文書〕
428
依田新左衛門尉がしきりに訴えたため、重恩として三十貫文の地を宛行う。跡部大炊助奉る〔依田家文書〕
52
上宮地村の伝嗣院とその塔頭隆円寺に対し、三ヵ条の禁制を下す〔樽嗣院文書〕
57
久保田内膳、甲州東向村にて五十貫文、信州佐久の馬流にて七十貫文宛行われる。山県三郎兵衛尉奉る〔窪田家文書〕
510
望月左近に甲州逸見の小尾郷において二十三賢文、同北下条にて三十貫五百文を宛行い、ならびに棟別一軒を免許する〔社記・寺記〕
510
東郡仏師原郷の網野新五右衛門尉に対し隼貢の郷免許を行ない、納分として一貫四百文を二十日のうちに納めるよう下知する。同族の網野志摩守、同新右衛門尉らが鶴の巣警固の奉公を賞し、家一軒の棟別役を免許する〔網野末彦家文書〕
517
御用鞘師細工を勤める彌津宮内丞・市川宮内助・禰津与三左衛門尉らに、その奉公を賞して甲府町次の普請役を免許する〔禰津るい家文書〕
63
越後へ侵攻を策し、信州先方衆の大井弾正忠に出陣を命ずる〔信州安養寺文書〕
64
越後の上杉輝虎と会戦を予測し、諏訪上社の神長官守矢信真に対し戦勝祈願を命ずる〔甲州古文書〕
624
早川肥後守の子息早川新九郎、同新津三左衛門に対し、父肥後守抱えきたる御器の役を返付し、奉公を督励する〔早川善治家文書〕
627
尾張紺屋田村又右衛門尉に対し、番子・召使を規制させ、屋敷一軒の諸役を免許する〔東大史料編纂所影写本〕
6月上旬
岐阜の織田信長へ信忠とお松の婚約を祝し、秋山伯耆守を使者として祝儀を届ける。越後有明の蟻燭三千張、漆千桶、熊皮千枚、馬十一疋など、その他多数〔甲陽軍鑑〕
628
甲斐国内の番匠らに対し、その奉公を賞し、家一軒分の普請役を免許する。跡部美作守勝忠奉る。(現在、文書の残る番匠は六方小路の孫三郎、石橋の新五郎、宇津谷の村主源右衛門・番匠縫左衛門尉、中下条の善六、畔村の善三郎、米倉の内匠助)〔新編甲州古文書〕
710
上杉輝虎の属城信州の飯山城を攻め、これを陥す〔京都府赤見文書〕
716
越中の一向一撲の首魁勝興寺顕栄に書を送り、越後を背後から攻めさせる。それより前、越中の松倉城の椎名康胤が輝虎に叛き、信玄に通ずる〔勝興寺文書〕
824
信州佐久・小県両郡の修験道二十二家に対し戦勝祈祷を命じ、その奉公にむくいるため普請役を免許する〔大井文書〕
925
郡内の小山田信茂、河口の番匠勘祖の家一つ、新五郎の家一つ、都合二つを免許、奉公を励ます〔倉沢恵一家文書〕
102
信州水内郡島津孫玉郎のため同郡夏川等の本領百六十八貫を安堵、さらに新恩として同郡長沼分百五十貫文ほか四ヵ所都合七百七貫を与える〔信濃文書〕
1012
郡内の小山田信茂、中村与十郎に対し、親抱置く屋敷・名田等を安堵し、源五郎を陣代として奉公致すべくを下知する〔甲州古文書〕
113
甲駿両国の通路不自由につき、都留郡平野村六郎赤衛門ら十三名に対し、本栖地下人らのごとく軍道開設に協力させ、その奉公として諸役を免許する〔長田開造家文書〕
1110
甲府善光寺金堂の材木が不足し、八幡の天神宮において切り出しを命ずる。跡部大炊助奉り、大本願鏡空宛〔甲府善光寺文書〕
1121
信玄と敵対する今川氏真、甲州勢の駿河侵攻を恐れて、上杉輝虎に信濃を背後から衝くことを要講する〔上杉家文書〕
126
いよいよ駿河侵略を志し、軍勢を率いて駿河に向かう。府中を占領、氏真、掛川に出奔する〔甲陽軍鑑・小倉文書〕
127
東河内の根子村の万福寺に対し禁制を出す。軍勢の陣取、乱妨狼籍を禁ずる〔万福寺文書〕
1212
大軍をもって甲駿の境を越え、内房に進出、薩壊峠の今川勢を破る〔家忠日記・小倉文書〕
1213
駿河府中に入り、底真遠江の掛川に出奔する〔歴代古案〕
1223
徳川家康に遠江掛川城を攻めるよう要講する〔恵林寺文書〕
12
このころ信玄の将秋山信友、遠江を侵して退く〔甲陽軍鑑〕
《註》
永禄十一年(1568)126日 
126 第一回駿河出陣
甲府出発。十三日駿府をおとす。今川氏真は掛川城へ逃げる。十二月十三日、徳川家康が遠江に侵入。今川氏の浜松城を攻め落す。甲将秋山俗友が下伊那衆を率いて、遠江見付に出陣。
《家》家康の部下と衝突。家康が信玄に抗議。北条氏政が氏真を助けるため、十二月十二日小田原出発。掛川城に援軍を送る。家康が掛川城を攻めたがおちない。

 
 
[出典]
http://sky.geocities.jp/yamanasinomori/yamanasinagano.html
 
 

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