2014年10月28日火曜日
鎌倉期から見える地名水内【みのち】・高井両郡のうち戦国期には郷名で見える「吾妻鏡」養和元年5月16日条によれば,村山七郎頼直が「村山・米用」を安 堵されており,同書文治2年3月12日条所収の同年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文には「善光寺領 〈阿古 馬島 村山 吉野〉」と見える当地の領主 は村山氏であったが,同じく「吾妻鏡」によれば,建久元年源頼朝が上洛する際の随兵の中に村上左衛門尉・高梨次郎らとともに「村山七郎」がいる建武元年8 月村山隆義は後醍醐天皇から越後国頚城郡薗田保地頭職を宛行われ(村山文書/信史5),村山氏は越後に移った下って長享2年の春秋宮造宮次第には,諏訪社 下社春宮の外垣180間のうち,1間分を負担する「村山」と5間分を負担する「村山」が見える(信叢2)その後,天正6年の下諏訪春秋両宮造宮帳に「一, 秋宮外籬十間 村山之郷より建之,都合八貫文」と見え,同年の下諏訪春宮造宮帳,同7年春宮柱諸事にも同様の記事が見える(同前)永禄11年10月2日武 田信玄は島津孫五郎に当地で175貫の地を宛行っている(島津文書/信史13)元亀3年7日晦日武田信玄は禰津信直らに命じて分国から追放した百姓らの徘 徊する者を召捕えさせているが,その中に「〈村山之〉弥右衛門」の名が見える(小泉文書/同前13)武田勝頼は天正6年2月「〈長沼之内〉村山」に諏訪社 下社造営銭を催促させている(諏訪大社文書/同前14)また,同年7月27日島津泰忠は武田勝頼に知行注文を指出し,この中に当地の175貫文が含まれて いる(島津文書/同前14)本能寺の変ののち,同10年7月13日上杉景勝は島津泰忠に当地の175貫文の地を安堵している(覚上公御代御書集/同前補遺 上)江戸期には千曲川をはさんで水内・高井両郡にそれぞれ村山村が存在したこれは当地が千曲川の流路変更によって二分されたものと推定されるが,その時期 は不明長享2年の春秋宮造宮次第では2か所の村山が見え,あるいはこの段階ですでに分断されていたものかとすれば,5間分を負担した村山が江戸期の水内郡 村山村(里村山),1間分負担の村山が高井郡村山村(山村山)にあたるか
[出典]
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7616459
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