2014年10月26日日曜日


須田 満親(すだ みつちか)は、戦国時代信濃国武将上杉氏家臣。
経歴[編集]
大永6年(1526年)、信濃国高井郡大岩城須田満国の子として生まれる(大塔合戦後の信濃国を鎮めるため室町幕府代官として派遣された細川慈忠によって応永22年(1415年)最後に鎮圧された須田為雄の同族)。満国は村上義清と共に武田信玄(晴信)の信濃侵攻に対抗したが、天文22年(1553年)に武田に敗れ、義清と共に越後上杉謙信(長尾景虎)を頼った。以後は謙信の家臣として仕え、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いに参加している。満親は信濃の一向宗と親しかったため、謙信からは北陸地方の一向宗との交渉役として用いられることが多かった。
謙信没後は上杉景勝に仕える。河田長親の死後、長親に代わって越中方面の総指揮官となって松倉城に入り、佐々成政との戦いに従事する。この頃には一時、越中国人舟見氏の名跡を継いで舟見宮内少輔規泰と名乗っていた。のちに魚津城主となるが、天正11年(1583年)、成政に城を明け渡して退去し、同年信濃海津城代に転じ、上杉領の北信4郡(高井・水内更級埴科)の押さえを任された。天正13年(1585年)に真田昌幸徳川家康と対立して上杉方に転じた際には、昌幸との交渉役を務め、昌幸の次男・信繁を人質として預かった。同年に昌幸が家康に攻められると、景勝に強く救援を進言し、上杉方援軍の指揮を執った(第一次上田合戦[1]
天正16年(1588年)、景勝に従って上洛し、同行した直江兼続色部長真と共に豊臣姓を下賜された。[2]「文禄三年定納員数目録」には、海津城主・知行高12,086石と記され、上杉家中では兼続に次ぐ大身であった。
しかし慶長2年(1597年)、秀吉の命により松阪城古田重勝らが北信濃の検地に送り込まれてくるなど、秀次事件以降噂されていた上杉氏の会津移封への動きが現実のものとなりつつあった最中、嫡男・満胤(妻は直江兼続妹)が、兼続を総奉行とする伏見城舟入普請において不手際が有ったとして(人夫徴発の割当について兼続に不満を訴えた為という)本庄顕長高梨頼親ら多くの重臣と共に改易され、上杉家から追放されてしまった[3]

慶長3年(1598年)正月、上杉氏の会津移封が正式に通達される。2月、満親は海津城にて自害した。享年73。次男の長義が後を継いだ。長義は陸奥国伊達郡梁川城代となり、20,000石(他に同心給分3,300石)を知行した。



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