2014年10月20日月曜日


旧石器時代後期

BC30,000年代、旧石器時代の遺跡、会津若松市笹山原遺跡からナイフ形石器が、BC12,000年の耶麻郡高郷村塩坪遺跡からも同石器、また、BC1,1000年代の会津若松市小石ヶ浜遺跡からは細石刃が出土しています。

縄文時代
 BC8,000年代、磐梯山1次破裂、赤柘埴山北面が崩れ名家湖が出来る。また同年代の塩川町常世遺跡等から土器が発掘される。その土器は西南部北海道 から東北地方にかけて特徴のある「乳房形尖底の貝殻刺し文」といわれるもので、関東北陸にはあまり見られないもので、先ず会津の歴史は北日本の南限という 形で始まったと思われている。
 磐梯山2次破裂により土湯沢が出来る
BC2,000年代、磐梯山3次破裂、名家湖貯留進む。

弥生時代
 BC200年代、磐梯山4次破裂によって沼の平が出来た。
稲作は北関東や越後からもたらされたが、その稲作と弥生文化を先住縄文系住民は柔軟に受け入れ育てて行ったことが縄文と弥生の複合遺跡である「上野尻遺 跡」「南御山遺跡」の発掘によって証明されている。両遺跡は、縄文と弥生が仲良く同居しており、縄文から弥生への移行が平和のうちに連続して行われたこと を示している。

古墳時代
 AD300年代になると、会津板下町杵ゲ森古墳、会津若松市会津大塚山古墳、会津板下町亀ヶ森古墳など、会津全域に古墳が造られ、会津地方を支配した豪族が現れ、大和朝廷の支配下にあったと考えられています。
猪苗代湖出来る
 804年に磐梯山が噴火、この時猪苗代湖が出来たと伝えられています。

恵日寺創建
 807年徳一によって創建されたと伝えられています。恵日寺は寺僧300人、最盛期には寺領18万石に及びました。
会津4郡について
 岩代國の一郡であった会津は、840年には耶麻郡の分立が「続日本後記」の記録で確認され、さらに、900年頃には、私号の形で、大沼、河沼2郡が分立 し、「会津4郡」と称されたが、「会津4郡」という名称からも、それらを総て、「会津」と呼ぶ統合名詞は失われておらず、それは、現在も同様です。

律令の解体
 それは10世紀頃だったと思われる。陸奥出羽按察使であった藤原定国の詠んだ歌
「かひなしや たずねきたれど みちのくの 会津の里も 名のみなりけり」
これが、それを表しているとされている。

恵日寺衆徒支配から、奥州藤原氏支配
 10世紀頃より会津を支配した勢力は、磐梯町の恵日寺でした。しかし従来の蜷川荘(耶麻郡を殆ど含む)のように名目的には中央貴族の荘園として存続した 土地もあったのですが、それらの荘官も実質的には恵日寺の支配下にあったという二重支配を受けていたと思われます。また、会津を恵日寺が完全支配したのは 1087年のようで、その後約100年間、会津は、恵日寺衆徒支配によって、対外不干渉のモンロー主義のもとにあったのですが、頼朝挙兵に際し、その去就 を問われることとなり、結果として、越後の城氏に組みし、会津4郡の兵を率いて、会津の将、乗丹房が出陣、1181年、横田河原の合戦に於いて木曾義仲に 破れ、その殆どを失うこととなる。
 さて、破れた越後の城氏は、越後に身の置きどころも無く、そこで、すでに兵力を失い支配権力を喪失し空洞化した会津に逃れたが、すぐに、平泉の藤原氏に追われることとなり、その後平泉支配が1189年のその滅亡までの8年の間行われます。

中世の始まり
 1181.6.14、長野市篠の井横田河原での合戦に於いて、義仲のために会津兵は壊滅し、結果、会津に、奥州藤原氏の進出を許すこととなるが、それも、頼朝の奥州征伐により撤退。全くの無政府状態におかれ、その後の1189年、鎌倉幕府の支配が始まる。 

関東武士の支配
 奥州平定後、相模の山内首藤氏の山内通基が會津郡伊北郷と大沼郡金山谷に、また、下野河原郷の河原田盛光が伊南郷を、頼朝により与えられる。
 さらに、三浦本宗が滅亡した宝治合戦(1247)に、三浦氏の傍流の、佐原十郎義連の孫の盛時は、兄弟の光盛、時連とともに北条時頼に組みし、戦後、盛 時が三浦本宗である「三浦介」を与えられ、北条得宗家領である加納荘の地頭代に任命され、半在家の付近に青山城を構え根拠としています。
 元来が荘園としての機能を失い、且つ、旧支配者の勢力が実力を失ってしまっていた會津に、警察軍事権を持った地頭(守護地頭制)が入府してきたのでした。
 ここに会津第二政権、「佐原葦名氏」の支配の基が芽生えます。

[出典]
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP031.html


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