『四方赤良』余談集5
[引用]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/yomono5.html
はじめに上グラフを見てください。
これは上杉景勝の時代に、貫高制から石高制へ改める際に作成された『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』から算出したものになります(禄高 3千石未満
は「その他」として省略)。「緑色」が大国但馬守(兼続の実弟で、以前は小国と名乗っていた)や甘粕備後守など越後国の重臣で、「赤色」が直江山城守兼
続、「黄色」が信濃国の者達になります。これを見て気付くこととして、上杉家は越後国といった印象が強いのですが、上杉景勝の時代では25%程度が信濃国
の者達で構成され、直江山城守を中心に越後と信濃の者がほぼ均等にバランスを保つ体制であったことに気付きます。上杉家臣の中でも直江は5万3千石と群を
抜いていますが、No2は須田の1万2千石、No5で島津6千石と、他の上杉家の古参者を差し置いて重用されていました。「須田、清野、島津、芋川、市
川」?と、聞いたこともないような人物が居並んでいますが、須田が須坂市、清野が長野市松代・東条・西条など、島津が長野市赤沼から豊野など、芋川が飯綱
町など、市川が栄村から野沢温泉村などと、皆が現在の長野市より北にあたる地域の小土豪でした。彼等がどのような経緯で上杉家臣となったのかは、主に次の
3つに分かれます。
①武田晴信の侵攻に対して反抗し、敗れて上杉を頼った者。
②武田と上杉の抗争に巻き込まれ、最終的に上杉へ降った者。
③武田・織田と仕え、織田信長の死後に上杉へ降った者。
彼等が歩んだ3つのルーツをまとめようとすると、それこそ真に直江兼続を中心に書かれた『天地人』の内容を表すことになります。
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