私の推測ですが、小田原北条氏滅亡後、信濃高遠の保科正光がこの地を支配しており、10年後、大阪の陣以後、高遠に戻り、後、保科正之の代に山形へ移封、さらに会津に転封となります。紅花は会津でも栽培されるようになっており、長南の紅花は保科氏によって山形、会津に伝えられたのではないかと。会津の蕎麦(ソバ)は、保科氏が信州から伝えたというのはよく知られた話です。高遠の人が言っていました。保科家の会津移住の際、蕎麦職人と蕎麦の種をみんな持っていってしまったため、高遠からは蕎麦屋が いなくなった」と。紅花もそうではなかったかと思うのです。
[出典]
http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/c/05341e7a5ed2e64a30b1a7dfd091f7c8
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