2014年10月31日金曜日


鎌倉時代と言えば、まず思い浮かぶのは、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝だ。藤原日本史では、その源頼朝は、源氏棟梁だとする。しかし、源頼朝は、1180 年石橋山の挙兵で、「平家」配下に破れて以来、一度も戦場に赴いて陣頭指揮をしてはいない。が、しかし、源頼朝は、木曽義仲や源義経などの「源氏軍団」 が、平家一門を壊滅すると、それらの源氏の忠臣を抹殺し、1192年後白河法皇より征夷大将軍に任ぜられる。
そして、関東の支配者となった源頼朝は、平安時代を生き延びるために「秦氏」から「惟宗氏」に氏名を替えていた民族に、古来から藤原氏が支配していた南九州の島津荘を与えているのは、何故だ。
この源頼朝の処置により、秦氏→惟宗氏忠久から、明治革命で暗躍する島津氏が興った。この惟宗氏は、関東の上野を支配していた比企氏の丹後局を通して繋がりがあった。それは、島津氏の租忠久は、惟宗氏広言と比企氏丹後局の子であったからだ。
更に不思議は、鎌倉時代に突然現れた島津氏の家紋「丸に十字」は、秦氏末裔の弾家の家紋と同じなのだ。その両家の家紋も、元は「十字」のミトラ教のシンボル太陽を表す「マルタクロス」だった。秦氏と島津氏との関係は、何処から続いていたのか。
何故、源氏棟梁とする源頼朝は、「平家」を倒した「源氏」を抹殺し、その代わりに、秦氏末裔の惟宗氏に、藤原氏の荘園を与えたのだろうか。その、源氏棟梁とする源頼朝と、惟宗氏(秦氏)とには、源平合戦において、何か関係があるのか。
1872年(明治5年)イギリス東インド会社の流れをくむ国際資本により、富岡製糸場が開業されると、「東京日日新聞」「日新真事誌」「郵便報知新聞」が 創刊され、その翌年に、政府の公式の布告文を「婦女童幼」にまで知らすべく、「公文通誌」が創刊された。その「公文通誌」は、1874年「在野」をほのめ かす「朝野」を新聞題名に選んだ。そして、「朝野新聞」は、もっぱら時事の風刺文を掲載していた。
順調に部数を伸ばしていた「朝野新聞」も、1877年に勃発した「西南の役」での各新聞社との報道合戦に敗れ、部数が激変した。そのため、1889年「朝 野新聞」は、「大阪毎日新聞」社長渡辺治に譲渡された。この時から、「朝野新聞」に「徳川制度」の連載が始まった。その「徳川制度」の記事の中に、治承4 年(1180年)源頼朝が初代弾左衛門(藤原頼兼?)に、「頼朝公の御朱印」を与えた、とする文がある。その「朝野新聞」の記事とは、以下だ。

[出典]
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/770.html


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