2014年10月31日金曜日


清野長範( ?~寛永11・1634年)
通称:周防守、助次郎
長範は会津葦名義広の家臣、平田尾張守常広の次男で初め平田助次郎を称した。
天正17(1589)年、伊達政宗に葦名氏は滅ぼされ、浪人となるが、越後の木戸元斎という者を頼って移住する。
のち景勝に拝謁し、近侍となる。
一方彼の養父となる清野清入軒康祐は信州の清野城主であり武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡後の天正10(1582)年6月に景勝を頼り、家臣となる。
康祐は文禄元(1592)年5月28日に嗣子がないまま没したので、長範が家督を相続することになった。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、4177石を知行し、軍役250人半であった。
慶長3(1598)年の景勝の会津移封に従い、伊南城1万3200石の城代となった。
同6年の米沢転封後は彼は米沢城下に移り、3333石を知行した。寛永10(1633)年5月17日奉行職となる。
翌11年(1634)年9月4日没した。

[出典]
http://kenshin.sengoku-jidai.com/kashindan121.htm#kiyono


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