2014年10月28日火曜日


赤木家は桓武平氏平良文の後裔親忠が信州赤木郷に住んでその地の名を名乗ったのに始まります。その子忠長(忠頼、 秩父氏称上総介)は、承久年中に備中川上郡穴門郷に移住して滝山城主となりました。それから何代かを経た子孫忠房は赤木蔵人と名乗って宇治村穴田に住み、 その子忠道は高松城の戦に毛利方として参戦して戦死しています。
忠道の子、與三右衛門重宗も小早川隆景の軍に参陣しましたが、落城の後は八田部(総社)に土着して医業をはじめました。重宗は一旦小倉姓を名乗ります。

惣左衛門重吉は赤木兵左衛門の子で赤木に復姓して医業を始めました。妻は同所の名族大森外右衛門元房の娘です。
宗七(定七?)は軽部村江口氏、妻石田氏は同村の石田氏でしょうか、後妻は吉川村吉川氏で夫歿後復籍しています。
惣左衛門貞友の母は石田氏で妻池上氏は同村の石田氏でしょうか、後妻は水内村大戸氏です。亦右衛門の母は吉川氏で、その妻は神岡氏、この夫婦には一子惣七があります。
貞友の姉妹は、八田部村北戎屋亀山惣左衛門妻と八田部村池上氏に嫁いでいます。
惣左衛門守貞の母は池上氏で、妻は久代村大角氏です。同じ母池上氏の姉妹が三人あり、大森氏、富原村木梨氏へ嫁いでいます。大戸氏の子貞弐春賢は分家しますが、二十七才で早世しています。もう一人大戸氏が生んだ娘があり、これは西戎屋亀山仙右衛門正綱妻となっています。

惣左衛門(要蔵、亜甫)貞綱(尚綱、簡:号朴翁、亮淳)は、万輪丸屋亀山伝兵衛昆綱の次男で母は祢屋氏です。養父守貞とは六十一才もの年齢差があります。 幼少時は多病でしたが、讃岐国の尾池恭庵について医学を修得して蒔田家の侍医となっています。簡の実家万輪丸屋が薬屋であった関係から同じ業界の縁組みだ ろうと思います。藤井高久門下で和歌も好くし、西山拙斎とも交遊がありました。その妻須磨は久代村大角氏で五男二女をもうけています。この大角氏は守貞妻 の実家と同じ家と思われます。簡の後妻は足守村松浦氏です。

貞綱の長男八五郎(母大角氏)は万輪丸屋亀山公綱の跡継ぎとなって登左衛門倫綱と改めています。次男修平浚(母大角氏)が家を継いでいます。大坂の懐徳堂 中井履軒から解剖書「越俎弄筆」の筆者を許可されています。妻は松浦氏、後妻は足守村中島氏です。三男正助敦は天明八年に三十四才で早世、四男久平長常は 東戎屋亀山綱満の跡を継ぎます。
五男信左衛門忠行は江戸に出て勉強をして幕府直参に取り立てられ、三百五十石、浅草七軒町に邸宅を貰うほど出世しました。天保五年に六十六才で死去、その長男唯五郎が跡を継いだことが幕府編纂の旗本人名辞典から確認できます。
貞綱の季女於君(母松浦氏)は万輪丸屋亀山公綱の養女となり、後に同村清水屋安原正業の妻となりました。

太郎立(号求莽)は京都の吉益南涯に学び、文政五年のコレラ流行の時に罹患して亡くなっています。その妻幾は新海氏ですが、この末妹富が長尾村新海元孝長 之妻となっていますので、幾の実家も同じ家だろうと思います。新海家も代々医業を続けた家ですから、医者同士の縁組みのようです。医者に限らず、同業者同 士で縁組みをするというのは今も昔も変わらないところがあります。
浚の次男源十郎雄は松山藩津田家の婿養子となっています。四男素平均之は文化十年に二十一才で早世、長女は池田隼人家中上野藤助妻、三女慶は松山藩藤井家に嫁いでいます。四女糸は伯耆国黒坂村緒方家に嫁いでいます。この緒方家は倉敷の南大橋家初代五郎の実家と同じ家だろうと思います。


[出典]
http://gos.but.jp/akagi.htm

 

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