長沼城は、戦国期の弘治年間(1555-58)から永禄年間(1558-70)にかけて武田氏がいくたびかの年月をかけて整備した城郭で、武田氏が占領地で構築する梯郭式の城です。武田氏が当地を領有する前は、鎌倉期からこの地の地頭職を兼帯した島津氏が館を構えていたものと思われます。
信濃島津氏は、薩摩島津氏の庶子家で鎌倉期初期より太田荘の諸郷の地頭職を受け継ぎ、南北朝期~戦国期にかけても黒川郷・長沼郷・下浅野福王寺郷の信濃島津氏(長沼島津氏は長沼郷を預かる庶子家だったかも?)や赤沼郷の赤沼島津氏(越前島津氏の庶子家)が隣接の諸勢力に抗して領地を保持していました。
天文年間後半の武田氏の信濃侵攻は、その勢力バランスを根底から崩すもので、天文22年(1553)の村上氏の敗退は村上氏方であった島津氏にも影響を与えたようで、矢筒城による島津権六郎が武田氏に滅ぼされた(没落)と伝わっているようです。この矢筒城の島津権六郎は史料に見えない人ですが、矢筒城の地は信濃島津氏の本領の黒川郷があところで、信濃島津氏の惣領家だったのではないかと思われます。長沼島津氏や赤沼島津氏の帰趨は定かではありませんが、武田氏が弘治元年(1555)に長沼城の改修を行ってますので、上杉方につき北方に逃れたのではないかと思われます。
しかし、この年の4月に善光寺別当栗田氏が武田方に転じ旭山城に籠城に始まる第2次川中島合戦の際に長沼城は上杉方に戻り、島津一族も戻っていたのではないかと思われます。しかし、弘治3年2月に川中島方面の上杉方の拠点葛山城が武田方に急襲され落城し、長沼城の島津氏も大倉城に逃れていますが、武田方の大日方氏が晴信に報告した中に島津月下斎が「鳥屋(長野市)に攻め寄せ、鬼無里に夜襲をかけている」と云うことが記され、後方撹乱をしているのが分かります。この第3次川中島合戦後も武田氏の攻勢が続き、「島津氏の家臣がぞくぞくし投降してきた」と晴信は小山田虎満に宛てた書状の中で書いていますので、赤沼島津氏が武田方に降ったのはこの時ではないかと思われます。
弘治元年の改修に引き続き永禄4年(1561)に2回目の大がかりな改修を行い、復元図にある原形が出来上がったと思われます。永禄6年には、飯縄山麓に国中の人夫を動員して軍道を造り、赤沼にいた島津尾張守には、武田信玄から長沼の地下人(農民、庶民、地元の人)を帰住させるよう命じられていることから、越後上杉攻めの拠点を海津城より北側に移していったものと思われます。3回目の改修は永禄11年(1568)に馬場美濃守信春が命じられたようで、軍団が常駐できるようにし、城下も整備されたものうです。なお、この年の7月に信玄は長沼城に在陣して飯山城を攻めています。
天正10年(1582)6月2日に織田信長が本能寺で横死すると、川中島は上杉景勝が領有した。同月26日に景勝自ら長沼城に入り、北信濃4郡(埴科・更科・高井・水内)を犀川以北と以南で海津組と長沼組に2分し、海津城には村上源五景国、長沼城には島津淡路守忠直を城代・郡司に任じました。
上杉氏の会津移封後は、秀吉の蔵入地となり代官関一政が入り、江戸期になると森家・松平家が領有しましたが、元和元年(1615)佐久間勝之が1万石で入り、貞亨5年(1688)幕命に従わないとの由で改易となり廃城になりました。
※島津月下斎は、戦国期長沼島津氏を代表する人物として、天正10年に長沼城代・河北郡司になった島津淡路守忠直に比定されことが多いようですが、忠直は会津時代の史料では島津下々斎昔忠とあり会津長沼城を預かっていた。島津月下斎は、忠直の親と思われます。
※信濃島津氏と赤沼島津氏は天正10年7月13日に景勝より知行地を宛行われました。それを基に武田氏侵攻以前の知行高を推定してみたいと思います。長沼島津氏は、天文22年に惣領家が滅亡したと考えられ、惣領家を含めた所領と考えまして、牟礼・黒川を中核にして5100貫文に及び、そのほかにも長沼郷も含めると6千貫文を超えるものと思われます。赤沼島津氏は、168貫文だったようです。したがって文禄年間の両家の所領高も6190石と537石となっています。
[出典]
「古城の風景」
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/folder/643141.html?m=lc&p=3
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