伴 バン
大伴氏の略にてトモと称す。但し、多くは蕃の佳字なり。和名抄に越中国射水郡伴郷あり、後世の半村庄(富山県新湊市)にて蕃族居住地なり。近江国甲賀郡柏
木御厨伴中山村(ばんなかやま)あり、名跡記に「伴氏、下山村に居る」。水口村に伴氏(ばん)四十戸、その内、下山村に十三戸あり。甲賀二十一騎にて伴党
と称す。系図には著名な三河伴氏と同族と称すが附会なり。柏木庄は新羅の天日矛(あまのひぼこ)族の渡来地説あり。園城寺伝記に園城寺(大津市)の新羅明
神で元服した新羅三郎義光は柏木庄を新羅明神に寄進している。甲西町に伴氏十六戸、野洲郡物部郷閻魔堂村(守山市)に伴野氏(ばんの)二十戸あり。新羅人
蕃族の渡来地なり。尚、伴林は林条参照。○栃木県塩谷郡喜連川町二十二戸、栗山村二十戸、上都賀郡粟野町十三戸、大田原市二十五戸、今市市三十戸。長野県
東筑摩郡波田町十戸、南安曇郡梓川村十七戸。○青森県弘前市四十三戸、青森市三十二戸あり。伴田条参照。
一 武蔵国造族の伴直 古代氏族系譜集成に「武蔵国造。伴直(林、武蔵人)」と見ゆ。伴直(とものあたえ)は大伴直の略とするが、伴林(ばんばやし)にて蕃林(ばんばやし)のことなり。林条参照。
二
忍城士の伴氏 成田分限帳に「二十一貫文・伴伊織、二十貫文・伴数馬、御用人・伴藤左衛門」。行田史譚に「天正十八年忍城攻めの時、伴伊織・伴数馬は長
野口を守る。伴近林・伴五郎太郎・伴直記は遊軍として諸備の持口を見廻る」と見ゆ。此の一族は久下村出身にて、久下氏と共に成田氏家臣となる。
三 忍藩松平下野守忠吉家臣 慶長十二年清洲藩分限帳に「二百五十石・伴清右衛門・是は忍にて罷出・伊勢之者」あり。
四 忍藩阿部氏家臣 慶安年中忍藩分限帳に「忍屋敷番・三十俵二人扶持・伴次郎兵衛、御勘定之者・二十俵二人扶持・伴九兵衛」。文化四年忍藩分限帳に「御馬廻・八人扶持・伴東三郎」あり。
五 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御馬廻・百三十石・伴藤兵衛、御勘定頭・百石・伴又六、御小姓・三人扶持・伴重蔵、隠居・三人扶持・伴道哉」。明治四年忍藩士族名簿に「百三十石・伴文次郎、六十六石余・伴銃太郎」あり。
六 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣 寛永十四年小浜藩分限帳に「三百五十石・伴治左衛門」あり。
七 川越藩柳沢出羽守保明(松平吉保)家臣 元禄七年川越藩分限帳に「御徒小頭・五両二人扶持・伴半蔵」。
八 入間郡加佐志村(狭山市) 奥富家伝及び羽黒社碑に「八幡太郎義家の家臣大宅光任の子孫伴蔵人一俊が羽後国梁川(山形県鶴岡市)に土着したが、のち武蔵加佐志村に移り、此の地を開拓す」とあり。現存無し。応永年間の勧進と伝へる羽黒神社へ出羽羽黒山修験が来住するか。
九 大里郡石原村(熊谷市) 明治三十五年鍛冶職伴茂八あり。一戸現存す。
一〇 同郡久下村(熊谷市) 旧家にて二項の後裔なり。。七戸現存す。[出典]
http://homepage1.nifty.com/joichi/4-1ha.html
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