2014年10月31日金曜日


長沼島津長忠【しまづながただ(15??~1536)】

上水内郡長沼城主。1524年、高梨政頼は長尾家を後楯として信濃に帰国し、中野に本拠を構えて北信濃におけるみずからの領主的立場を強めていったのであ る。これに対して島津家は、村上家を後楯として反高梨の旗幟を明確にしていた。1536年、島津貞忠が病没すると島津長忠が継ぎ兵庫介を称した。

長沼島津忠直【しまづただなお(1534~1604)】

島津長忠の男。官途は淡路守。通称月下斎。村上義清、高梨政頼らと共に武田晴信の北信濃侵攻に抵抗した。1557年、武田晴信は高梨政頼を攻撃、高梨政頼 は中野城から飯山城に落延び、長尾景虎に支援を求めた。このとき、島津忠直も長沼城から大蔵城に居を移した。島津忠直は長尾景虎勢の加勢のため水内郡鬼無 里を夜襲した。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行った。長尾景 虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田晴信勢が盛 り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃復帰は断た れた。1582年、武田勝頼の討死後、北信濃の領主となった森長可の麾下に入ることを強要されたがこれを拒み、芋川親正と共に反抗したが敗れて、長尾景勝 を頼り越後国へと落ち伸びた。1582年「本能寺の変」後、森長可が退去した事により長尾景虎が北信濃を所領に組み込んだ際に長沼城に復したがまもなく、 島津家の家督を嫡男島津義忠に譲った。

長沼島津義忠【しまづよしただ(15??~1598)】

島津忠直の男。1596年、父島津忠直の隠居により長沼島津家の家督を相続した。1598年、長尾景勝の会津移封の際にはそれに従って信濃国を去り、陸奥長沼城を領した。1598年、島津義忠が死去したため、岩井信能の岩井利忠を島津義忠の娘婿にして家督を継承させた。

[出典]
http://takatoshi24.blogspot.jp/2010/12/blog-post_26.html



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