2014年10月12日日曜日


決戦川中島の戦いの巻2戦国時代)
 
 川中島の戦いについては、多くの人の知るところで、今更説明をするわけではありませんが、第4回川中島の戦いだけが映画やテレビなどにより有名になってしまっています。そこで、第1・2・3回及び5回川中島の戦いを中心に紹介をします。
川中島古戦場跡
 ●第1回川中島の戦い 天文22年(1553)
 塩田城(上田市)と葛尾城(埴科郡坂城町)が武田晴信(信玄)に攻め落とされ村上義清が敗走すると、いよいよ北信濃の豪族(村上氏、高梨氏、井上氏、須田氏、島津氏、栗田氏等)の要請を受けた越後国の長尾景虎(上杉謙信)が武田晴信と対決するために信州に出陣してきました。
 越後勢は犀川を越えて南下し、布施(長野市篠ノ井)で村上義清を裏切った狐落城主(埴科郡坂城町)の大須賀久兵衛を破り、八幡で武田軍の小勢を破り、さらに新砥城(千曲市:上山田町)を落城させました。
 そしてさらに筑摩郡の青柳城(東筑摩郡坂北村)、会田の虚空蔵山城(東筑摩郡四賀村)を落とし、坂木周辺(埴科郡坂城町)を放火しました。
 これに対して武田晴信は塩田城(上田市)に居て小競り合いをした後に、深志城(松本市)へ退きました。これにより長尾景虎も越後国へ退き、第1回の戦闘は終了しました。
 ●第2回川中島の戦い 弘治元年(1555年)
 伊那郡を平定した武田晴信は、佐野山(千曲市:更埴市)に内田監物を配置し、さらに自ら善光寺平へ出陣しました。これを受けて長尾景虎も村上氏、高梨氏の要請を受けて出陣し、善光寺の東に接する横山城(長野市)に布陣しました。
 武田晴信は、旭山城(長野市)に栗田氏を配置して、自らは犀川の南に位置する大塚(長野市青木島)に布陣しました。7月19日に渡河した上杉軍は川中島で武田軍と戦いましたが、やがて成果を見ることなく膠着状態に陥りました。両者は善光寺平の主導権を巡って睨み合ったものの、軍規の乱れや長陣による不満がつのり、結局今川義元の仲介によって閏10月15日に撤退し、第2回の戦闘は終了しました。
 ●第3回川中島の戦い 弘治3年(1557)
 越後国の長尾景虎が雪で動けない冬を狙って、武田晴信は葛尾城を猛攻撃し再び落城させました。続いて長沼城(長野市)の島津氏を攻めて、これも落城させました。このような武田軍の勢いに脅えた各地の豪族達は次々と武田晴信に寝返り、飯山城の高梨氏は長尾景虎へ救援を求めました。
 景虎は3月24日に出陣し、前回の和議で破却された旭山城(長野市)を再築してそこを本陣としました。そして武田側の豪族を討つため野沢温泉や中野方面へ出兵をしました。
 8月下旬に北国街道沿いである上野原(長野市)で両者は激突しましたが勝敗がつかず、越後勢は撤退しました。この戦いにより、北信濃はほぼ武田晴信の支配する地域となりました。
 ●第4回川中島の戦い 永禄4年(1561)
 ※江戸時代に川中島の戦いを詠んだ有名な頼山陽の漢詩になります。
題不識庵撃機山図  山陽
  鞭声粛粛夜過河
  暁見千兵擁大牙
  遺恨十年磨一剣
  流星光底逸長蛇
 ●第5回川中島の戦い 永禄7年(1564)
 春に武田信玄は、上杉輝虎(景虎→永禄4年改名)の関東出兵の留守を狙って野尻城(上水内郡信濃町)を落とし、越後国境まで攻め込みました。
 上杉輝虎は7月29日に善光寺付近に着陣し、犀川を越えて川中島へ進みましたが、稲荷山近くの塩崎城(長野市篠ノ井)にいた武田信玄は動きませんでした。やがて上杉輝虎は飯山城に退いて城郭を強化し、付近の連絡網を強化した後に春日山へ撤退しました。こうして戦闘らしい戦闘もなく信玄と輝虎の川中島における戦いは終わりました。
 その後・・
 武田信玄は信濃の支配をほぼ整えると、永禄9年(1566)上野国の箕輪城を攻略して、さらに今川氏の駿河国を攻略して、上洛の準備を着々と進めていきました。一方、上杉輝虎は越中の一向一揆の討伐に出陣したが永禄11年(1568)家来の本庄繁長の謀叛や、武田軍の飯山攻略などで度々出兵を余儀なくされていった。
※上杉輝虎が「謙信」と改名するのは元亀元年(1570)と、死亡する前8年間だけになります。
 [出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/minotigun.htm




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