2014年10月13日月曜日


興味深い推理がなされている。「古城の風景」



 ときは天正11年3年(1584)3月、上杉景勝が牧之島城の城将芋川越前守親正に宛てた書状の中に「大野田之地再興」と出てくる城(砦)です。この天正11年3年(1584)3月という時期は、前年に武田家滅亡・信長の本能寺での横死に始まる天正壬午の乱が、徳川と北条の和睦によって終息した感もありましたが、信濃国では諸勢力の軋轢が高まっていた時期でした。

左図は、その時期の諸勢力の範囲です。諸勢力の暫定勢力範囲になります。

上杉景勝は、川中島4郡を確保し、対徳川戦に虚空蔵山城に主力を集め、筑摩・安曇を支配下におくべく策動しています。
真田郷の真田昌幸は小県郡制圧を果たしています。
小笠原貞慶は、深志城を確保し筑摩・安曇郡への侵攻を図っています。


上杉景勝の芋川親正宛の書状(「上越市史別編2上杉氏文書集1」2688号)で、以下のものです。
「其表仕置ニ付而、使者到来、絵図・条目如健聞者、大野田之地再興ニ相極候条、為其警固衆申付、嶋津左京亮差遣候、(中略) 
   三月七日         景勝 
        [芋川越前守殿] 
       右同人へ」
 この書状からしますと、景勝は、親正にある方面での築城を命じ、それに沿って親正が適地を選定して絵図などを添えて報告したようで、その結果大野田砦の再興を認め島津左京亮を援軍(検使か)として送ったことが分かります。ここにでてくる芋川親正は、牧之島城に城将として在番して深志の小笠原貞慶に備えていたようです。また、島津左京亮は、『上越市史』は長沼城代島津忠直の嫡子義忠としています。ただ、『秀吉の野望』の中で平山優氏は、島津泰忠(赤沼島津氏)としており、こちらの方が正しいようです。。島津左京亮は、虚空蔵山城から派遣されたものと思われ、この戦線では派遣軍の検使とし活躍しています。
 天正11年前半の牧之島城周辺の状況は、小笠原勢が天正10年9月に日岐城を攻略し、次なる標的として牧之島城や麻績城・青柳城を定めていたようです。その後、徳川勢との抗争や家臣団の謀叛などがあり翌年の2月頃まで対上杉勢攻めは小康状態だったようですが、青柳・麻績城方面と大町(旧美麻村)の千見城方面からの小笠原勢の侵攻がいつ来てもおかしくなかったと考えられ、上杉氏としてはそれに備える次の一手としての「大野田之地再興」だったとのでしょう。ただ、この時期麻績南方で真田氏が丸子城を攻め小県郡平定し、徳川の支援のもと尼ヶ淵を取立て築城(上田城)していますので、真田勢にも気を配らなくてはいけなかったと思われます。実際に、小笠原勢の麻績城攻めが天正11年4月にあり、上杉方が大勝利を得た際にも芋川親正は、参戦しその働きを称されていますが、この戦いの上杉方の主力は虚空蔵山城に在番していた北信濃衆だったようです。牧之島城将の芋川親正は加勢として参戦だったと思われ、あくまでも芋川親正の役割は、大町方面が主力だったのではないかと思われます。それは、その月の29日付けの景勝書状で仁科表への調義などのために丸田掃部助を牧之島城に派遣したことからも分かるのではないかと思います。さらに、5月にも仁科表で芋川勢が小笠原勢と合戦に及んでいます。
 さて、芋川親正が再興した大野田砦がどこなのかです。比定されている場所が、三か所あります。
山崎砦   筑北村大字永井字山崎 
②大野田城 大町市美麻(旧美麻村大塩字大野田)
③想定される城館なし  松本市安曇大野田(旧安曇村大野田)
この中で③は、『上越市史』の推定地ですが、当時の情勢からしまして敵方小笠原氏の中心部近くに再興するとは考えられなく、除外していいと思います。となりますと、①と②之可能性が高いと思われます。
まず①の山崎砦は、牧之島城から南東に直線距離で約13kmkの所にありますが、実距離としては険しい山中を30km程はあるかと思います。上杉方の主力が在番している虚空蔵山城からは実距離25kmほどになります。
 
 左図は、、「図説山城探訪」の城郭分布図を借用したものです。
 山崎砦の周辺は、諸街道が集まる交通の要所で、複数の城館があります。その中で拠点城館は、麻績城や青柳城です。山崎砦の近くの地が大野田です。
  
 山崎砦を大野田砦と比定しているのは『秀吉の野望』を書かれた平山優氏です。その理由として真田昌幸の小県郡平定で、「真田の勢力が北信濃や筑摩郡に及ぶことを恐れ」「筑摩郡と小県郡の境界に城を築くことを意図した。」としています。確かに、修那羅峠を越えれば小県郡の青木村にでますから、この方面からの上田勢の侵攻も考えられますし、この時期の小笠原、真田、上杉の諸勢力の境目に位置している場所ではあります。

 縄張図は、、宮坂武男氏作図「図説山城探訪」から借用しています。
 山崎砦は、尾根の先端部にあり、単郭(25×15m)の極めて小規模な砦といえます。宮坂氏は、「曲輪内は中心部が高くなり完全に削平されてなく」「主郭西側の切岸は4~5mの高さではっきりしているのに対して東側は地山に近く不鮮明である。傾斜の緩い西側への備えの重点を置いた結果であろう。としています。大手は、西下の居館があることから北西尾根と考えています。
 この構造からしますと、境目の城というより街道監視の砦と行った方がよいように思われ、改めて修築するほどのものではないと思われます。もし、この地の城を再興するとするなら、安坂川を挟んだ対岸の
安坂城の方が利用価値が高いのではないかと思われます。
 
 安坂城は、主要部に三つの郭を配し、背後を5条の堀切で遮断しています。かなり厳重な備えで、三つの郭には古墳の石を利用した石垣が見られるようです。縄張図を見た感じとしては、松本の林大城のある辺りの山家城に似ている感じがします。天正12年になって当地を落とした小笠原氏が改修したのかもしれません。
 
 次に、②の大野田城です。牧之島城から西に直線距離でで5km程の山中にあります。

 旧美麻村には、南北に走る県道497号線沿いに小規模城館が点在しています。東西の道は北側に北安曇と上水内郡を結ぶ大町街道に当地最大規模の千見城があり、南側には千見城に次ぐ規模の大野田城の下を通って信州新町方面へ抜ける古道が通っています。
 小笠原氏は、美麻の西側の仁科衆を傘下に収め千見城奪還を意図していたようです。千見城は、当地の戦略的城館として武田氏時代より整備されていたようです。しかし、南側の古道周辺には小規模な城館があるだけで、防備的には手薄な感じです。そのためこの方面の拠点城館として大野田城が再興された可能性が高いと考えます。 
 

 左図は、「図説山城探訪」から借用したもので、説明のため加筆しています。
 主要部は南側の四つの郭群で、北側は西側に10数個の削平地が見られるが後世の畑の跡かもしれません。主要部の東西の斜面は急崖で尾根上に巾10m前後の郭を造り、二か所の堀切で防備しています。シンプルですが、意外に防御の固い城となっています。
 城歴は不明ですが、芋川親正の修築が当城とすると、それなりに納得できるものと思われます。
 
 牧之島城の芋川親正が大野田に再興した城は、牧之島からの位置や城の構造からしますと、美麻の大野田城がそれにあたるのではないかと考えますが、どうでしょうか?


[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/22823715.html

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