2014年10月11日土曜日


■高遠藩
越後国の長尾景虎が雪で動けない冬を狙って、武田晴信は葛尾城を猛攻撃し再び落城させました。続いて長沼城(長野市)の島津氏を攻めて、これも落城させました。このような武田軍の勢いに脅えた各地の豪族達は次々と武田晴信に寝返り、飯山城の高梨氏は長尾景虎へ救援を求めました。

長野市の最北部にあたる長沼という場所に藩がありました。藩の中を千曲川が南北に流れ、周辺にはリンゴ畑が広がる平らな土地です。

 元和2年(1616)佐久間大膳亮勝之が長沼城に入り、長沼藩が成立しました。これと同時に兄の佐久間備前守安政が飯山城に入っており、兄弟で北信濃の北部を占めていました。

 所領は長沼、津野、赤沼、吉、田子、三才、金箱、駒沢、富竹(以上、長野市)、村山(須坂市)、相之島(須坂市)など17村と近江国高島郡10村とを合わせて1万8千石を与えられました。2代勝友の時に、甥の勝盛に長沼5千石を分知して長沼居館に住まわせて長沼知行所(旗本)としました(正保4年廃絶)。3代勝豊の時には、弟の勝興に赤沼3千石分知し、新館に住まわせて赤沼知行所(旗本)としましたが、次ぎの盛遠の代に改易となりました。

[出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/minotigun.htm



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