2014年10月16日木曜日


【守矢文書】 御柱祭祭礼之事ハ神代のはじめ、天孫 天津彦火瓊々杵尊 降臨之時、建御名方神 科野國 洲羽海の東に至り給う、此の時 経津主神 武甕槌命に向て曰く、 願バ、我に此地を除き給ハヽ 父 大國主命之命に違ハず、兄事代主命ノ言に違わず、葦原中國ハ、天之神御子命に随ひ、献候む、我永く此地ニ止まりて寶(示+乍)長久、四方蒼生を守らんて誓いて、四ツの御柱を建給う也。 安寧天皇の御宇 神八井命の御子(神武天皇の第四子御子也)科野の国造りたりた建御名方命を崇尊し給ひて、諏方の神と称したまひ、再び御柱を建て神霊を祭り給う。 【島津家文書】 惟宗忠久を初代とする島津氏が、平安時代末期から明治時代初期までの約700年間、代々伝えてきた文書  頼朝 丹後局の落胤が島津忠久 北条政子に追放され、住吉神社で出産 諏訪社五月会・御射山の祭祀の役を勤めている事が示されている。 豊後前司忠久(島津氏高祖)、大隈前司忠時(薩州2代目)、 彦三郎左衛門尉忠長(忠時孫)、弥三郎入道称阿頼祐(忠時孫)、 五郎右衛門尉忠秀(越前島津氏忠綱曾孫)、左京進光忠(忠久3男忠直曾孫)


参考:守矢文書
http://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Moriya-monnjo.html

茅野市在住の細田貴助先生が,最近,『県宝守矢文書を読む-中世の史実と歴史が見える-』を上梓された。守矢文書とは,諏 訪神社上社の神長を,平安時代初期から明治維新に至るまで,勤め上げた守矢家に保存されていた文書のことである。先生は,これらの古文書を教材として,長 らく読書会を主宰されていたので,その成果は広く公刊されることが望まれていた。本書は,限定出版であったが,幸い入手することが叶い,拝読することが出 来た。もちろん,歴史研究の初心者としてであるので,繰り返し精読しなければならいと感じている。今回は,拝読の初回として,得られた,若干の知見に付い て報告したい。

筆者は,電子頁『古族研究(日本古族研究所,1999年)』において,列島における古族の消長を追跡している。拙論「列島国号(『古族研究』,1199年)」「中国史観(同,1999年)」「霍公鳥歌(同,1999年)」「六月祝詞(同,1999年)」「出雲賀詞(同,2002年)」「宮中賀詞(同,1999年)」「三種神器(同,1999年)」「仏陀戦略(同,1999年)」「藤氏韜略(同,2002 年)」などによると,列島の覇権は,①中国から渡来し,九州島に小倭国を創建し倭本族に始まり,②中国から半島南部を経由して九州島に渡来し,竹斯に大倭 国を樹立した倭支族を経て,③更に,白村江の敗戦を期に,大倭国を簒奪し,同時に,並存した倭系国を征服して,大和国を樹立した高句麗国由来の午族へと交 代したので,列島には,敗者である倭族の怨恨,勝者である午族の呪詛が渦巻くことになった。ちなみに,諏訪古族は,拙論「諏訪古史(同,2002年)」によると,列島系倭族(以下,倭本族と記す)であると思われるが,拙論「神長秘伝(同,2003年)」などによると,屈折した心理を抱えていたものと考えられるので,諏訪神社がらみの歴史も,全てがそのような変革に彩られていると思われる。

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