2014年10月18日土曜日


歴史[編集]

江戸時代まで[編集]

市内一箕町にある大塚山古墳は4世紀後半に造営されたものである。出土品の三角縁神獣鏡は畿内で鋳造されたものと同一と推定されている。
都市としての会津若松市の起源は、1384年至徳元年)の、蘆名直盛による黒川城(若松城)築城に遡る。以降、城下町「黒川」は、戦国大名蘆名氏の領国支配の拠点として、また当時奥州最大の都市として発展を遂げていった。
1589年天正17年)、伊達政宗のもとで勢力を拡大する伊達氏が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地とした。しかし翌1590年(天正18年)、豊臣秀吉奥州仕置により黒川は伊達氏から取り上げられ、代わって蒲生氏郷が入封した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられ、また築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野、松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた[3][4]。 氏郷の死後、上杉景勝が入封するが、関ヶ原の役徳川家康に敵対して敗れ、米沢へ移封となった。その後、蒲生秀行加藤嘉明などの領主を経て、1643年徳川秀忠の子保科正之が入封して会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として栄えた。

幕末から太平洋戦争まで[編集]

1862年文久2年)、会津藩松平容保京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷志士の取り締まりや京都治安維持を担ったが、長州藩を筆頭とする倒幕派(後に明治政府軍となる)の恨みを買うことになった。1868年慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、会津藩は攻撃の対象とされた(会津戦争)。明治政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰した。

戊辰戦争で攻撃を受けた若松城(1868年)
戊辰戦争で敗れた結果、会津若松は明治政府の直轄地となり、民政局が設置された。翌1869年に民政局が廃止されて若松県が設置され、県庁は最初、大町の融通寺に、次に旧若松城本丸に置かれた。明治4年7月14日(1871年8月29日)の全国的な廃藩置県により、引き続き若松県が設置され、会津若松は若松県の県庁所在地となった。しかし、1876年(明治9年)8月21日には若松県、福島県(1876年以前)、磐前県の3県が合併されて現在の福島県が成立し、これ以来は福島県に入れられている。
1889年、北会津郡若松町となり、1899年、市制施行により「若松市」となった。この年の人口は3万0,488人であった。1890年に私立会津中学校が開校。後に県立に移管され福島県立会津中学校となり、現在の福島県立会津高等学校に至る。1899年(明治32年)7月15日、岩越線(現在の磐越西線)が若松駅(現在の会津若松駅1917年(大正6年)4月21日に改称)まで開通する。磐越西線は1914年(大正3年)11月1日新津まで全通した。
1908年日露戦争に伴って新設された第13師団歩兵第65連隊が若松に置かれ、現在の会津若松市立第二中学校の敷地が衛戍地とされた。同連隊は1925年宇垣軍縮に伴って廃止され、代わって第2師団歩兵第29連隊仙台から移動する。その後、1937年日中戦争を契機に歩兵第65連隊も復活した。歩兵第65連隊は南京攻略戦などに参加。歩兵第29連隊はガダルカナル島の戦いに投入され大きな損害を受けている。
1902年(明治35年)1月1日開業の会津電力株式会社により電力の供給が開始されたほか、1929年(昭和4年)4月1日には水道給水が開始された。また、1934年(昭和9年)3月5日の東京への電話開通など、この時期には近代化が進む。また、1932年(昭和7年)10月19日御薬園(会津松平氏庭園)、1934年(昭和9年)12月28日には若松城址が国の史跡に指定されたほか、1937年(昭和12年)4月1日には現在の市役所庁舎が完成している。

太平洋戦争後[編集]

太平洋戦争では会津若松は空襲を免れた。1946年には、神明通りが開通、1947年には会津若松商工会議所の設立が認可、1953年10月3日には会津まつりが開催されるなど、戦後復興を遂げていく。
1955年には周辺の7村を編入し、この時に市名を「若松市」から現在の「会津若松市」に変更した。市名の変更は、福岡県若松市1914年市制。現在の北九州市若松区)との混同の回避を目的として行われたもので、先に市制を敷いた市が改名した、唯一の例である。改名前には、電信・電話・郵便等において両市が混同されることが多く、郵便物にいたっては日平均50通、多い日では100通もの誤配があったという(『町村合併の記録』福島県総務部地方課 (1958) )。福岡県の若松市は、1963年2月10日門司市小倉市戸畑市八幡市と合併されて北九州市となったため、福岡県の「若松市」は消滅したが、会津若松市はその後も「会津」を頭に付けた市名のまま現在に至っている。
1961年には人口が10万人を突破し、1965年から住居表示実施により、順次、旧町名が新町名に変更される。また、1965年9月17日には鶴ヶ城の天守閣再建工事が落成する。1989年には会津若松市観光公社が設立され、観光業も発展していく。
その後は1993年4月14日には会津大学が開校し、1992年10月29日会津若松ICを含む区間が開通していた磐越自動車道1997年10月1日に全線(いわき - 新潟)開通し、交通網の充実が図られた。
2011年3月12日福島第一原子力発電所事故により、原発所在地である大熊町の町役場の機能が会津若松に移転した(大熊町役場会津若松出張所)。

住居表示後に消滅した町名[編集]

1965年(昭和40年)から住居表示実施により、順次、旧町名が現在の新町名に変更されていった。旧町名のうち、1877年(明治10年)までに成立していた町で、1889年(明治22年)に北会津郡若松町として合併した町を列記する。


大町竪町、大町一之町、大町ニ之町、大町ニ之竪、大町三之町、大町原之町、大町三四之竪、大町四之町、大町名子屋町、道場小路町、原之町、紺屋町、甲賀町、馬場上一之町、馬場下一之町、馬場一之竪町、馬場上ニ之町、馬場下二之町、馬場二之竪町、馬場上三之町、馬場下三之町、馬場三之竪町、馬場上四之町、馬場下四之町、馬場四之竪町、馬場上五之町、馬場下五之町、馬場名子屋町、大工町、博労町、上四之町、本六日町、上一之町、上六日町、上二之町、下野伏町、上五之町、行人町、中六日町、上野伏町、屋敷町、本郷町、竪三日町、寺町、東名子屋町、五軒町、横三日町、鳥居町、槻木町、阿弥陀町、愛宕町、浄光寺町、台之町、南横町、天寧寺町、徒之町、滝沢町、千石町、蚕養町、桂林寺町、老町、赤井町、諏訪四ツ谷、当麻町、当麻中町、善久町、針屋町、川原町、材木町、融通寺町、七日町、北小路町、西名子屋町、針屋名子屋町、上大和町、中大和町、下大和町、後之分町、栄町字郭内、栄町字栄町一丁目、栄町字栄町二丁目、栄町字新栄町、栄町字栄町三丁目、栄町字栄町四丁目、栄町字本三之丁、栄町字本一之丁、栄町字融通寺町口、栄町字川原町口、栄町字米代二之丁、栄町字米代四之丁、栄町字十八蔵、栄町字割場、栄町字追手前、栄町字塀内、栄町字本二之丁上、栄町字天寧寺町口、栄町字宝積寺通、栄町字内小田垣、栄町字鶴ヶ城、新横町、片柳町、南町

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