2014年10月13日月曜日
信濃島津家は、薩隅日3カ国の守護を兼ねた島津家の分家で、
鎌倉時代初頭に、恩賞として信濃国太田荘を与えられ、
本家より島津氏久(またはその庶子)が移ったことにより始まる。。
居城は、千曲川左岸の侵食平地に築かれ、長沼城と称した。
長沼城は、現在の長野県長野市津野に存在した。
島津家は、源頼朝の落胤であると称すが、惟宗氏の出であるという。
日向国島津荘を本貫地とし、島津忠久を祖として系図がハッキリとしてくる。。
島津家は始祖忠久の二字「忠」と「久」を通字とし、
元服すると、殆ど全ての人物がこの二字のどちらかを使用している。。
信濃国は、執権北条家の所領のあと、南朝勢力の村上氏を筆頭に小領主が割拠し、
守護小笠原家による支配力は低く無秩序な状態が続く。。
一時、守護・小笠原政康の時代に纏まりかけたが、
それもその後の内乱や他国勢力の介入によって瓦解していく。。
天文年間に甲斐国守護の武田晴信が信濃攻略に取り掛かると、
国内に動揺が走り、再び争乱となり、越後を頼って落ちてゆく。。
諏訪頼重が自刃させられると、さらに抵抗が激しくなり、
信濃守護小笠原長時や葛尾城主の村上義清らが、長尾景虎を頼り越後に逃亡する。
この情勢に、長尾(上杉)方として、武田方に最後まで抵抗していたのが、
飯山城主の高梨政頼や須田城主の須田満親などの北信衆である。
この北信衆の中に、島津氏も近隣の井上氏や小田切氏とともに加わっている。。
弘治3年、武田晴信の北信攻略が本格化し激化すると、
長沼城主で太田荘を所領とする、島津昔忠は耐えかねて大蔵城へと落ちた。
その後、川中島の合戦を挟んで、徐々に武田方に落とされてゆくと、
遂に、島津規久は越後を頼る。。
その後は、越後の上杉謙信(長尾景虎)に属し、村上・高梨氏らとともに運命を共にする。。
島津直忠、島津泰忠らが時代時代に活躍したが、
結局、大勢力に併呑されて、失地回復ならずして歴史の幕を閉じるのである。。
[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/syogun443/24097867.html
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