2014年10月12日日曜日


 諏訪大社についていろいろ調べはじめたとき、最初に思ったことは、「何故、諏訪大社は上社と下社に分かれ、なおかつそれぞれ二社(上社は前宮及び本宮、下社は春宮及び秋宮)、計四社も存在するのだろうか」という素朴な疑問であった。そのときは、珍しい神社だなあ、という感想程度のことしか抱かなかったが、その後、実際に四社にお参りをし、調べをすすめるうちに、どうもやはりおかしい、と考えるようになった。

 まず気になるのが、諏訪大社の頂点に立つ「大祝」が、上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)で異なっていたという点である。いくら上下でお社が分かれているとはいえ、最高神職が二人いるというのはおかしい。諏訪大社の解説冊子には、祭神は両者とも「建御名方神」とその妃神である「八坂刀売神」と書かれている。主祭神こそ上社が建御名方で下社が八坂刀売ということになっているが、双方同じ神様をお祀りしているというのに、その祭儀を司る者が別々というのは、どうにも不自然だ。実際、上社でしか行われない神事(御頭祭、御室神事(現在廃止)、蛙狩神事、湛神事など。とても重要な神事が多い。)や下社でしか行われない神事(御舟祭など)が存在する。同じ神社であるのに、いったい祭儀の統一性は重要視されなかったのであろうか。また、民の統治という面からも、トップが二人いるのは何かと都合が悪かったはずだ。実際、戦国時代には諏訪氏と金刺氏が内戦状態に突入する事態に陥っている。この時代、内戦自体は珍しいことではないが、トップが別々であったことの弊害がなかったとはいいがたい。

 次に、上社におけるナンバー2、筆頭神官・神長官「守矢氏」の存在である。守矢氏は建御名方が諏訪にお祀りされる以前からこの地に土着していた一族で、祖神とされる「モレヤ(洩矢)神」を祀っていた。古事記によれば、そこへ出雲族の建御名方(大国主の息子)が攻め入り、諏訪を支配することとなった。守矢一族は建御名方を祭神にむかえ、その子孫ともいわれる諏訪氏を大祝に据え、みずからは神長官として大祝を補佐する職に就いた。しかし、神長官守矢資料館に張り出されているように、実際のところ祭祀に関する実権を握っていたのは他でもないこの守矢氏であった。要するに、名を捨て実を取ったわけである。このしたたかな守矢氏がおこなう「上社」の神事は、前述したように非常に重要なものが多く、ほとんど諏訪信仰の神髄といって差し支えない。一方、守矢の異様なまでの存在感に比べ、下社の神長官は、こういっては何だが、存在感が足りない。大祝金刺氏の「オマケ」的な印象を拭えない。

 上社と下社との間には、あきらかにある分断が見える。

 考えられるのは、上社と下社は今でこそ「諏訪大社」というひとつ名を名乗っているが、かつては別の神社であり、別の神様をお祀りしていたのではないかということだ。つまり、今では夫婦神として建御名方と八坂刀売は二神一体のように取り扱われているが、かつては夫婦などではなく、別々の由来をもつ無関係の神様だったのではないかということだ。もっと踏み込んでいえば、建御名方とはつまり洩矢神のことであり、八坂刀売は諏訪に攻め入った一族の信奉する神様ではなかっただろうか、ということである。

 ここで「タケミナカタ=モレヤ説」に対してさっそく異論が出てくるに違いない。だって建御名方は古事記によれば大国主の息子で、大国主が天孫族に国を譲ったあとも最後まで抵抗し、建御雷神に敗れて諏訪に追いやられたと書かれてあるではないかと。出雲族の建御名方が諏訪土着の洩矢神と同一であるはずがない、と。
 私は少々結論を急ぎすぎた。何の説明もなくいきなりタケミナカタ=モレヤだとするのは性急だったであろう。事後になるが、この考えについて以下に説明したい。

 タケミナカタという神様は、『古事記』には登場するのだが、『日本書紀』には登場しない。また、出雲族ならば当然登場するはずの『出雲国風土記』にさえ、登場しないのである。これはいささか不自然ではなかろうか。大国主の国譲りという一連の重要事の最後に抵抗を示してみせるタケミナカタに関する記述が、何故古事記以外の史書では一切触れられていないのであろうか。この問いに対する回答として、タケミナカタとは、古事記を編纂した中央政権によって「つくられた」神様ではないかという説が存在する。すなわち、まつろわぬ一族であった守矢氏を屈服させたのち、守矢氏の信奉する洩矢神を「天孫族のタケミカヅチに無様に敗れた出雲族のタケミナカタ」にすり替えを行うことによって、洩矢神に対する信仰を削ぎ、天孫族の権威を強調せんと意図したのではないか、ということである。

 それを匂わせる事実はいくつもある。

 まず、古事記を書いた太安万侶と下社大祝・金刺氏は、実は同族(多氏)である。中央政権の下で重要な仕事に従事していた太安万侶と近い一族が、政権の意向を受け、守矢一族を監視・管理するために諏訪に現在の下社を築いた可能性は十分に考えられる。

 第二に、タケミナカタの「軍神」としての性格である。タケミナカタは、タケミカヅチ、フツヌシとならんで日本の三大軍神ともいわれる神様であり、このことは何の疑いもなく一般に浸透しているようであるが、よく考えると不思議である。というのも、タケミナカタはタケミカヅチと喧嘩をしてあっけなく敗れ、両腕をもがれたうえにはるばる諏訪の地まで逃げてきて、情けない命乞いまでしたのだ。負けた神様が何故力と勝利の象徴である「軍神」として崇め奉られるのか、ふつうならば理解に苦しむところだ。しかし、モレヤ=タケミナカタと考えるならば、自然であると私は考える。
 中沢新一著『精霊の王』(講談社)にこんな記述がある。

 “海民と狩猟民は、ともに「戦争」の概念とも深い関わりをもっている。(中略)戦争のときに結成される戦士の集団と山にはいるときの狩猟民とは、その行動様式から守るべき戒律や集団構成にいたるまで、深い共通点を感じさせるのである。そうなると、住吉や諏訪の神は戦争の神でもあるという思考が生まれてもおかしくないことになる……”

 ここでいう「諏訪の神」とは、「出雲族のタケミナカタ」ではない。諏訪周辺の山岳地帯に土着していた狩猟神としてのモレヤ(文中では“宿神”)である。私は、「負けた神様」としてのタケミナカタよりも、「狩猟神」としてのモレヤのほうが、軍神的性格を付与するのに適しているのではないかと考えている。

 第三に、「洩矢神」についての記録があまりにも少ないこと。洩矢神がいったいどのような神様なのか、今ではほとんど分からなくなっているのである。諏訪土着の神様で、タケミナカタに敗れたということ以外あまり情報がない。いくら敗者の神様でも、その詳細がまるきり分からないというのは、諏訪信仰の強度を考えるといくらなんでもおかしい。
 多くの宗教がそうであるように、天孫族は降した神をみずからの神話のうちに取り込んでしまうのをお家芸としているので、逆にいえば「神を殺す」ということをしない。信仰と情報を根こそぎ消し去る膨大なコストに比べれば、身内に取り込んでしまった方がラクなのである。それだのに、中央政権が特別に警戒するほどの勢力を諏訪に築いていた洩矢神に関する情報は不思議なほど少ない。それに、中央政権に敗れたのちも神長官として影響力を保ち続けた守矢氏が、そう簡単に洩矢神信仰を捨てるとも思えないではないか。
 「モレヤの情報の少なさ」は、モレヤがタケミナカタと名を変えて生き続けていた証拠なのではないかと思う。中央政権は、一応の勝者として国津神モレヤを認めることは出来なかった。しかし、神長官守矢氏の存在感が示すとおり、諏訪におけるモレヤ信仰はとても根強く、これを完全に駆逐することはできそうもない。そこで、「天孫族に敗れた出雲族のタケミナカタ」をつくりあげモレヤとすり替えることで、最低限の面目を保とうとしたのではないかと考えられるのである。このことは、古事記にある「ここ(諏訪)から一歩も出ない」ことを条件にタケミナカタがタケミカヅチの赦しを請うというエピソードが象徴的に示している。出雲から追い立てられて逃げてきたタケミナカタが「諏訪から一歩も出ない」という条件を提示することには違和感があるが、もともと諏訪に根を張っていたモレヤが「ここから一歩も出ない」条件で信仰を維持しようとしたと考えるならば、非常に納得がいく。「名を捨て実を取る」したたかさを持つ守矢氏は、神長官の地位とともに、みずからすすんでタケミナカタの名を受容したのである。そして、祭祀の伝統はしっかり守った。こう考えた方が、諏訪独特の神事のあり方に説明がつく。



御頭祭(神長官守矢資料館)


 諏訪の祭祀の伝統について言及したついでに、かの有名な「御柱」にも少し触れておこう。
 
 諏訪大社の御柱祭といえば知らぬ者のないほど有名なお祭りであり、神社の四隅に立てられた巨木から削り出された立派な柱は諏訪大社の象徴でもある。しかし、何故「御柱」を立てるのかについては、よく判っていない。諏訪大社の冊子にさえ、「多くの説があります」などとお茶を濁しているくらいなのだから。その説として、祭場の表示、本殿の代わり、社殿建替の代わり、神様のお降りになる柱などが取り上げられているが、どれも何となく説得力に欠ける。目印や代替物ならば、何も「四隅」でなくとも足りるのではないか。「四隅」であるからには、その囲われた「内部」に何か意味があるのではないか。そんな疑問に、前述の諸説は回答できていない。

 私が実際にこの目で見て感じたのは、これは「結界」だ、ということであった。それも、外からの干渉を防ぐための結界でなく、内部にある強大な力を封じ込めるための結界。私は、これをモレヤを封じるための中央政権の知恵とみたい。狩猟神としての荒々しい力を持ち、最後まで抵抗を示した手強い諏訪の神。徹底的に屈服させることはできなかったが、なんとか諏訪一地方にとどめることには成功した。その証として、御柱を四方に配したのではないか。大地に根をはった生きた樹木(神のよりしろとなる。)を伐採し、枝打ちを施した御柱は霊的にモレヤを封じるのみならず、タケミナカタに誓約させた「ここから一歩も出ない」ともピタリと符合する。
 諏訪圏において、御柱は、ほとんどすべての神社に存在する。どんな小さな祠にも、必ずと言ってよいほど四方に御柱が立てられているのである。これはもう執拗というほかなく、とてつもなく必死な意志を感じる。手に負えない何かに対する畏れと、それを封じ込めておきたいという意志。単なる目印や代替物といわれるよりは、そう考えた方がしっくりとくる。



大国主命社の天神社


北方御社宮司社の摂社

 興味深いのは、諏訪大社の重要な神事である「御射山神事」の舞台となる御射山社には「御柱を立てない」というルールが存するらしいことである。実際に見にいってみると、富士見町の御射山神社においては、ほんとうに御柱がなかった。そのときは非常に不思議に思ったものだが、御柱がモレヤを封じる結界だとするなら、御射山社に御柱を立てない理由も想像がつく。というのも、御射山神事は、御頭祭とならんで諏訪大社のもっとも重要な神事のひとつであり、もっとも原始的な(つまりモレヤ的な)神事の代表格だからである。御柱がモレヤを封じ込めるための装置なのだとしたら、(秘密裡に)モレヤを祀るための神事である御射山神事においてこれを忌避するのは当然のことといえよう。



御射山社




ご覧のとおり御柱がない。


 さて、ここまで論をすすめてくれば、「モレヤ=タケミナカタ説」にもそれなりの説得力が出てきたのではなかろうか。ここに、私のもうひとつの仮説である「ヤサカトメ=諏訪に攻め入った一族の信奉する神」について記述することで、この説を補強してみたい。

 八坂刀売も、建御名方と同様、謎に包まれた神様である。何せ、こちらは『記紀神話』のどちらにも出てこない。正真正銘、何の情報もない。このことから諏訪固有の神だという説もあるらしいが、もしそうならあまりにもおかしい。もし八坂刀売が諏訪固有の神だったのならば、その原型となった神様の痕跡や情報が諏訪の地に残されていなければおかしいが、それが見あたらないのである。そのような来歴の明らかでない謎の神様を、諏訪信仰の原点である前宮の主祭神としていることにも違和感がある。
 それはともかく、八坂刀売自身に関する情報も、その原型の情報も見つからないということに、古代人の明確な意志、「隠匿の意志」を感じないだろうか。私は、八坂刀売は中央政権及び金刺氏、そして諏訪氏と守矢氏によって意図的に隠された神様だと考えている。
 ここで付言しておきたいのは、「八坂刀売-洩矢」の関係が、「建御名方-洩矢」の関係と重なることはない、ということだ。私は建御名方=洩矢という仮説を述べたが、八坂刀売=洩矢であることは絶対にないと考えている。すでに述べたとおり、八坂刀売を主祭神とする「下社」とは、中央政権からの命を受けた金刺氏が守矢一族を監視・管理するために築いた本拠と考えた。とするならば、金刺氏がここで守矢一族の信奉する神様である洩矢を下社の主祭神とするはずはない。むしろ洩矢には建御名方の名を与えて上社に閉じこめ、「一歩も出ない」ようにしたと考える方が自然である。

 では、八坂刀売とはいったい何者だったのだろうか。
 「八坂」と聞けばまず京都の「八坂神社」を思い出す。八坂神社の主祭神はいわずと知れたスサノオである。いったいこれは偶然の一致なのだろうか。
 下社秋宮から春宮へとつづく旧街道の途中に慈雲寺というお寺があり、そこの石段の途中にお社と巨岩がある。巨岩の方は武田信玄ゆかりの「矢除石」というもので、おもしろいエピソードがあるのだが、ここではそれは置いておく。問題はお社の方である。この神社は、「弥栄富神社」という。正式の読み方はわからないが、「ヤサカトメ神社」と読める。十中八九、八坂刀売を祀った神社であろう。



暗くて読めないが、「弥栄富神社」とある。


 「弥栄」という字は「ますます栄えること」の意で、「八坂」の語源と考えられる。実際、スサノオを祀る「弥栄神社」は各地にあり、スサノオがはじめて降った地である出雲にも存在する。天孫族の繁栄を祈ってスサノオをはじめてお祀りしたのが出雲の弥栄神社で、その後「八坂」に転じたと考えるのが自然だ。
 「八坂」と「弥栄」。ふたつの記号が一致した。八坂刀売とは、もしかしたらスサノオではなかったのだろうか。しかし、それがいつしか正体を隠匿され、建御名方(=洩矢)の妃として諏訪信仰に取り込まれてしまった。私は、おそらく上社下社両者の思惑が一致した末の措置ではなかったかと思う。上社側としては、せっかく洩矢信仰の神髄を守りぬいたというのに、そのすぐ側に天孫族の強面が頑張っているのでは都合が悪い。といって追い出すのは無理そうだから、なんとかして身内に取り込めないものだろうかと考えた。下社側は下社側で、洩矢信仰の原点である前宮に八坂刀売を据えることで、少しでも洩矢の威信を削いだりごまかしたりしたいと考えた。こうして、上社と下社は不思議な形で手を結び、前宮に八坂刀売を、下社にも建御名方を祭神に据えて、ひとつの神社・諏訪大社となった。


 どうであろうか。二つの仮説が、すんなりと収まったように感じられないだろうか。こう考えるなら、上社と下社にそれぞれ大祝が存在したことや、司る神事が別々であること、守矢家の異様な存在感、原始的な神事のあり方などにうまく説明がつくのである。
 私はこの仮説をもって、これからも現地調査や文献調査をすすめ、諏訪大社の謎に迫っていきたいと考えている。

 ところで、私はこの稿ではあえて「ミシャグジ」について触れることをしなかった。諏訪を語る上でもっとも重要ともいえるミシャグジに言及せず、ミシャグジと深い関係を持つ「モレヤ」を語るにとどめたのには、もちろん理由がある。ミシャグジとその信仰については、今でも謎が多く、たいそう奥が深いために、いちどこの神様に言及すると、もはやきりがなくなってしまうからである。
 私はここで二つの仮説を述べたかったので、ミシャグジをその仮説の補強に利用したい気持ちもあったのであるが、仮説の補強材料とするにはミシャグジは大きすぎた。ミシャグジに関する記述ばかりが膨れあがってしまい、肝心の仮説が希釈されてしまいかねなかった。そのため、あえて避けたのである。
 ミシャグジについては、稿を改めて述べたいと思う。

[出典]
http://www12.ocn.ne.jp/~libra/toho/tohoessay/kousatu01/kousatu01.html

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