2014年10月16日木曜日


長沼島津氏について

[出典]
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sin_simazu.html



中世、北信濃の水内郡(のち上水内郡)長沼を領した国人島津氏は、薩摩の戦国大名として有名な島津氏の同族である。島津氏の初代忠久は、文治元年(1185)、信濃国塩田荘地頭職ついで南九州の島津荘総地頭職に補任され、その後薩摩・大隅・日向守護職に補任された。さらに、承久三年(1221)信濃国太田荘地頭職を与えられ、同年に起った承久の乱に活躍したことで、一時的ながら越前国守護職にも補任された。
 安貞元年(1227)、忠久は鎌倉で死去すると、嫡男の忠時が後を継ぎ、次男の忠綱は越前守護代となり足羽郡足羽山に城を構え越前島津氏の祖となった。また、忠綱は指宿郡、知覧院を与えられ、長男の忠行は弘安二年(1279)に播磨国下揖保郷の地頭職に任ぜられて子孫は代々播磨国に居住、指宿郡、知覧院は忠景が継いで子孫は知覧氏を称した。戦国時代、武田信玄の信濃侵攻のとき、信玄に降った赤沼郷島津氏は忠景の子孫という。

島津氏の信濃土着

 さて、島津氏は鎌倉時代を通じて信濃各地に所領を有したが、鎌倉時代末期に書かれた『信濃国太田庄相伝系図』から三代久経の二男久長が神代郷・津野郷、越前系忠秀が赤沼郷、初代忠久の三男忠直の曾孫光忠が長沼郷の地頭職任じられていたたことが知られる。そして、かれらは『北条高時下知状』により、信濃一宮諏訪社の祭祀を勤めている。このように島津氏と信濃国は深い関係を有し、島津氏は薩摩に諏訪社を勧進し、また上井氏など諏訪系の武士が家中に見えるのもそこに由来したものである。
 正平五年(1350)、信濃守護小笠原政長の守護代をつとめた大井光長は、足利直義から信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう厳命を受けている。島津宗久は宗家島津貞久の嫡男であったが十九歳で夭逝、その跡を代官が支配していたのである。そして、その代官は島津氏の庶子家の人物であったと思われ、それが長沼、赤沼などの島津氏に続いていったのであろう。
 やがて、南北朝対立の争乱のなかで、島津宗家は薩摩・大隅を活動の場とし、次第に信濃との関係は断たれていった。その結果、信濃に残った庶子家が独立、長沼を支配して国人へと成長していったのである。そして、長沼島津氏の初代となった人物は島津国忠であったようだ。
 南北朝時代の末期、島津国忠は村上氏、高梨氏らと結んで、信濃守護斯波氏と対立、ついには乱を起して、斯波義種を守護の座から逐うという勢いを示した。やがて、斯波氏に代わって小笠原長秀が新信濃守護となって入部してきた。善光寺に守護所をおいた長秀は信濃一国の成敗に着手したが、村上満信・島津国忠らはその施策に対して反発、対立するようになった。応永七年(1400)、両者の対立は武力衝突に発展し、戦いは国人側の勝利となった。この戦いは「大塔合戦」と呼ばれ、信濃の中世史に特筆される事件となった。
 その後、信濃では国人がにわかに勢力を振るったが、幕府の討伐作戦により、室町幕府体制が浸透していった。やがて、応永三十二年(1425)小笠原政康が信濃守護に補任されると、その手腕もあって信濃の国人は小笠原氏に従うようになった。永享十二年(1440)、関東で結城合戦が起ると、小笠原政康は一方の大将として信濃の軍勢を率いて出陣した。このとき信濃勢は『結城陣番帳』によれば三十番に編成され、島津氏は十三番に「島津殿」とみえている。これは高梨氏、須田氏、井上氏、海野氏らと並ぶもので、相当の勢力を有していたことが知れる。かくして、島津氏は北信の長沼を本拠にして勢力を保ち、戦国時代に至ったのである。

長沼に一勢力を築く

 室町時代における島津氏の動向は、『諏訪御符礼之古書』からうかがわれる。諏訪御符礼之古書とは、信濃の一宮である諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録で、信濃の中世における武士の動向を知る史料としても貴重なものである。
 そのなかに長沼島津氏としては、享徳三年(1455)に島津入道沙弥常忠、長禄三年(1459)に島津薩摩入道沙弥常忠がみえ、島津入道は国忠のあとを継いだ薩摩守朝忠であろう。寛正六年(1465)、文明二年(1470)、同八年には兵庫介信忠、文明十九年になると島津薩摩守清忠の名が見える。ちなみに清忠が納めた礼銭は七十貫というもので、長沼島津氏は北信濃の国人領主として、諏訪神社の祭祀に対して少なくない資金を提供していたのである。
 系図によれば、薩摩守清忠の嫡男は貞忠で兵庫介、ついで大隅守を称したことが知られる。この貞忠のとき、島津氏は戦国乱世に遭遇したのであった。
 北信濃は地理的に越後に近く、また、文明九年(1477)には越後守護の上杉房定が半国守護になったことなどから、越後上杉氏の影響を受けることが多かった。また、室町時代の中ごろより高梨氏が勢力を拡大するようになり、寛正四年(1463)に上杉氏の軍を破った高梨政高は中野に進出する足掛かりを作った。この高梨氏の勢力拡大は、島津氏の領地支配に影響を与えずにはおかなかった。

北信濃の乱世

 越後守護上杉房定は、二男顕定を関東管領山内上杉氏の養子とし、関東の大乱となった享徳の乱に主導的立場で臨み、越後の名君と称された。房定が死去したのち、越後守護となった房能は、実兄でもある関東管領上杉顕定を援けて活躍した。
 しかし、守護権力の確立を目指して検地を行い、さらに守護不入の特権を排除するなどしたことから国人らの反発を受けた。永正四年(1507)、守護代長尾為景は上杉定実を擁して守護権力排斥のクーデターを起した。越後永正の乱で、敗れた房能は関東に逃れようとしたが討ち取られた。弟を殺された上杉顕定は、永正六年、関東の軍勢を率いて越後に出撃、為景・上杉定実を追い払うと越後を支配下においた。翌年、勢力を盛りかえした為景は顕定勢を各地で破り、ついに上田長森原の戦いで顕定を討ち取った。この一連の越後の争乱に際して、高梨政盛は長尾為景に与して活躍、顕定を討ち取ったのも政盛であった。
 かくして高梨氏は長尾氏との関係を深めながら、奥信濃に封建的領主としての立場を強めていった。一方、長尾為景の専横に対して、反感を募らせ越後守護上杉定実は実家の上条上杉氏らを恃んで兵を挙げた。この争乱において、高梨氏の勢力拡大を危惧する島津貞忠ら北信濃の国人は上杉定実を支援した。また、島津氏の背後には村上氏が黒幕として存在していたようだ。こうして、高梨氏は四面楚歌に陥ったが、永正十年の島津貞忠の書状から、高梨氏が中野地方を支配下においていたことが知られる。島津氏らの攻勢はあったものの、高梨氏は長尾氏の支援を得て、よく北信濃に勢力を拡大していたのであった。
 その後、上条氏らの乱を制圧した為景は、北信濃に鋭峰を向けてきた。この事態に窮した島津貞忠は、永正十六年、高梨氏を頼んで為景に和を請うた。そして、弟元忠を越後に送り、山吉妙寿と和を結ばせた。かくして、大永四年(1524)、高梨政頼は長尾氏を後楯として信濃に帰国し、中野に本拠を構えて北信濃におけるみずからの領主的立場を強めていったのである。これに対して島津氏は、村上氏を後楯として反高梨の旗幟を明確にしていた。
 天文五年(1536)、貞忠が死去すると長忠が継ぎ兵庫介を称した。長忠の子が忠直で、淡路守を称し、さらに昔忠、のちに月下斉と号した。忠直は越後の上杉氏、甲斐の武田氏らの抗争に翻弄されながら、よく乱世の真只中を生き抜いた。

信濃の戦国時代

 戦国時代、中信を支配下におく守護小笠原氏、北信に勢力を拡大する村上氏が信濃の二大勢力であった。これに南信の木曽氏、諏訪社祝の諏訪氏らが続き、それぞれ戦国大名に飛躍しようとしていた。しかし、いずれも信濃一国を統一するという強大な勢力とはなりえず、群雄割拠という状態を呈していた。
 一方、隣国甲斐でも守護武田氏が一族、国人との抗争に悩まされていたが、信虎の登場によって甲斐一国が統一され、武田氏は一躍戦国大名に成長した。その後、信虎は嫡男の晴信(のちの信玄)によって国外追放され、武田氏の新当主となった晴信は群雄割拠する信濃への侵略を開始した。まず、諏訪に進出した晴信は、天文十一年(1542)に諏訪頼重を滅ぼすと、諏訪上原城を信濃侵略の拠点としたのである。
 武田晴信の侵攻に対して、村上氏、小笠原氏の二大勢力は連携して対抗した。そして、天文十七年、村上義清は上田原の戦いで武田軍に大勝利をおさめた。この勝利によって村上氏・小笠原氏・木曽氏らは諏訪に攻め込んだが、逆に小笠原氏は大敗を喫し、本城である林城を失う結果となった。天文十九年、晴信はふたたび村上氏を攻めたが、義清はよく死守して武田軍の攻撃を退けた。しかし、武田方の巧妙な謀略によって、村上氏は次第に追い詰められて天文二十二年には本城葛尾城を自落するに至った。
 かくして、武田方の攻撃に敗れた小笠原氏、村上氏らは、高梨政頼を頼って越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に支援を求めた。高梨氏にしても村上氏らの没落は、そのままみずからの危機であり、越後の長尾氏との関係強化は不可欠であった。しかし、武田氏の北信侵攻は着々と進み、高梨氏、須田氏、井上氏らに対してさまざまな謀略が展開され、それぞれ一族が分裂して弱体化していった。長沼の島津氏も例外ではなく、信玄の攻勢に窮した北信の諸将は長尾景虎の出馬を願った。かくして、長尾景虎と武田晴信による川中島の戦いが開始されたのである。

川中島の戦い

 川中島の戦いは小競り合いを除いて、前後五回戦われたというのが定説である。第一回は天文二十二年四月で、北信勢と越後連合軍五千と武田の先鋒とが戦ったものである。ついで、弘治元年(1555)に両軍は対峙したが、大きな戦いにはならなかった。しかし、信玄の調略によって北信の市河氏、小島氏、夜交氏らが武田軍に味方したことで、川中島は信玄の支配下に入った。
 弘治三年三月、武田軍は高梨政頼を攻撃、政頼は中野から飯山に逃れ長尾景虎に救援を求めた。このとき、島津忠直も長沼城を撤退して、大蔵城に居を移している。その後、 忠直は景虎軍加勢のため水内郡鳥屋城に入り、水内郡鬼無里を夜襲している。そして八月、武田晴信と長尾景虎は水内郡上野原で衝突したが、決戦にはいたらなかった。
 永禄元年(1558)、信濃守護職に補任された武田信玄は、翌二年景虎が上洛している間隙を衝いて北信濃を制圧、さらに越後にまで乱入した。こうして、名実ともに信濃を支配下においた晴信は、翌三年には北信濃支配の拠点として海津城を築いた。対する長尾景虎は、関東に出陣して越年、翌四年には小田原城を攻撃、関東管領に就任した。このとき、前管領上杉憲政から上杉名字を与えられ、上杉政虎(以下謙信で統一)と名乗った。
 六月、越後に帰国した謙信は北信濃奪回に意を注ぎ、八月、一万八千の兵を率いて川中島へ出陣した。一方、武田信玄も二万の軍勢を率いて甲斐を出陣、両者は九月十八日に八幡原で決戦を行った。この戦いにおいて、両軍ともに先陣は信濃武士であった。上杉の先陣には村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親、そして島津忠直らが名を列ねた。緒戦は上杉方優勢に展開したが、やがて武田方が盛り返し、ついに上杉軍は越後へ退去した。この合戦で、もっとも深刻な被害を受けたのは、両軍ともに先陣をつとめさせられた信州勢であった。
 この戦いによって上杉謙信の北信濃回復はならず、武田信玄の信濃支配は確定した。ここにおいて、島津忠直らの信濃復帰は空しく断たれたのであった。

激動する乱世

 その後、永禄七年に謙信と信玄の対峙があったが決戦には至らず、以後、両者の直接対決はなかった。そして、元亀四年(天正元年=1573)上洛途上の武田信玄が死去し、天正六年(1578)には上杉謙信が急死した。
 謙信の死後、上杉氏ではともに養子である景勝(謙信の甥)と景虎(北条氏康の子)の間で家督争いが起った。世に「御館の乱」と呼ばれる内乱で、上杉家中は二派に分裂して抗争が展開された。この乱に際して、島津忠直と義忠の父子は景勝に味方して戦功をあげ、義忠は三度の感状を受けている。内乱は景勝が征したが、上杉氏は大きく勢力を後退せざるを得なかった。一方、信玄のあとを継いだ武田勝頼は、天正三年、織田・徳川連合軍と設楽原(長篠)で戦い敗れ、こちらも勢力を失墜させていた。
 天正十年三月、織田信長は大軍をもって甲斐に侵攻し、勝頼は戦うこともなく滅亡した。信長は北信濃四郡を森長可に与え、長可は海津城に入って上杉氏に対峙した。この情勢の変化に際した島津忠直は、芋川親正らとともに景勝に味方して森長可に抵抗した。ところが、六月二日、本能寺の変が起り、信長はあっけなく死去してしまった。長可は上方へ撤退し、ただちに上杉景勝は北信濃に進出、たちまち支配下においた。景勝は村上景国を海津城将とし、芋川親正を牧の島城、岩井信能を飯山城在番とし、島津忠直を長沼城に復帰させた。
 長沼城主に返り咲いた忠直は、同時に河北の郡司に任じられて、葛山から大倉に至る支配を委ねられ、その知行高は約七千貫*という広大なものであった。さらに、十一月には犀川北一円の支配を任せられるまでになった。
 その後、信濃は上杉氏、徳川氏、北条氏が三つ巴になっての草狩り場となった。天正十一年(1583)、上杉景勝が真田昌幸と小県・埴科両郡の境にある虚空蔵山にて戦った。この戦いに、義忠は軍目付として出陣、虚空蔵山にて督軍し戦功をあげた。翌天正十二年、信濃の旧領奪回を企図する小笠原貞慶との間で麻績・青柳両城をめぐる戦いが起った。戦いは上杉方の大勝利となり、義忠はおおいに奮戦、貞慶軍を深志近くまで追撃する活躍を示した。
 
*貫 高
江戸時代、武士の所領は「石」であらわされたが、中世武士の知行高をあらわす単位としては「貫」が用いられた。 「貫」は、銭一千文を一貫としたもので、古語辞典によれば「中世には米1石を銭1貫文とするのが公定であったが、 実際には10石もの収穫のある田地の価格も1貫文であったという」と記されている。しかし、豊臣秀吉が全国統一 する以前、度量衡は領主によって少しずつ違っていたというのが実状であった。では、島津氏の約七千貫という 知行高は江戸時代のそれに換算すれば、何石になるのであろうか。のちの長沼藩の石高が一万石であったこと、 のちに会津に移ったとき一万石相当の知行高を与えられていることから、一万石前後とするのが妥当なようだ。 いずれにしても、島津氏は小大名並の勢力を持っていたのである。


戦国時代の終焉

 信長後の中央政界では、織田家の部将であった羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、つぎつぎとライバルを蹴落として覇権を掌握した。その間、上杉景勝は秀吉の麾下に属し、小田原の陣、朝鮮出兵などに諸役をつとめた。
 慶長三年(1598)正月、景勝は会津への移封を命じられて越後を去った。島津忠直も長沼城を去って会津に同行、改めて岩代長沼で七千石と同心給三千二百石を与えられた。この年の四月、嫡男の義忠が病死したため、岩井信能の二男利忠を養子に迎えている。
 慶長五年、関ヶ原の合戦が起り、上杉景勝は西軍に与した結果、会津百二十万石から米沢三十万に転封の憂き目となった。忠直らも景勝に従って信夫郡小倉に移り、慶長九年八月、忠直は死去した。子孫は米沢藩の重臣として続き、江戸中期の左京親忠は江戸家老を勤めた。


■参考略系図
・三州諸家史、上水内郡誌「歴史編」などから作成。   





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