2014年10月13日月曜日


勅使門の棟と勅使の間がある二階建ての屋根棟には、九州島津公と同じ丸の中に右から逆に書いた十字の紋が打ち出されている。守矢家の紋が諏訪大社社紋の梶の葉ならわかるが、この紋のいわれはどうした訳かと不思議に思う。聞くところによれば、島津公が関東管領の時、守矢の先代に功績があり、それで家紋を貰ったと言う。平忠度の子重実の使用した陣幕にあった紋という説もある。高遠の内藤家の紋も守矢家と同じものとのことで、何かその辺からも調べてみたい。
(以下は『続・高部の文化財』) 平家が滅びた時、平忠度の子が、薩摩から逃れて神長の養子に入り、その時ついてきた立石隼人平忠康が高部に居つき、高部の立石の祖になったという記録が守矢文書にある。
 島津家と諏訪神社(現諏訪大社)の関係は、『伊藤富雄著作集 第1巻』から引用しました。
鎌倉時代の島津氏は、薩摩島津庄の地頭であると共に信濃水内郡太田庄の地頭で、島津氏の一族は諏訪神社の「御射山御頭」を勤仕していました。
 神長官家はその職務と地位を長らえさせるために、“外の血”を積極的に導入したと言われています。鎌倉時代から“付き合い”のある名門島津家からも養子を迎えたとすれば、“守矢島津家”としてその家紋を受け入れたことは考えられます。ただし、島津家の家紋は当初は「十」で、江戸時代に「◯」で囲んで「家紋」にしたという変遷があります。そのため、家紋を採用した時期がわからないので「養子と家紋の縁組」はあくまで想像という形になります。
 一方、時代は下りますが、元禄時代から幕末にかけての高遠藩主が内藤氏です。その高遠内藤氏の家紋が「家紋」です。高遠藩は高島(諏訪)藩の隣で、上社の御柱祭には騎馬行列を奉納するなど諏訪神社との結びつきは大きかったといいます。神長官邸の「裏山」が藩境の杖突峠ですから、祭礼を通して頻繁に交流があったのは間違いありません。ただし、家紋の共通性についてはまったくわかっていません。
神長官邸 改めて、神長官邸の写真を左に載せました。冒頭の「赤い家紋」はこの母屋の鬼板ですが、下の勅使専用の玄関屋根にも同じ紋があります。瓦屋根の時代はどうだったのかと、今は引退した鬼瓦を確認すると、その部分には剥がれた「跡」しかありませんでした。
 それにしても、「守矢」だから「丸に違い矢」などの「矢」をモチーフにした家紋を採用したほうが自然と思われますが…。

『神長守矢氏系譜』にみる「丸に十文字」

 今井野菊著『洩矢氏族千鹿頭神』に「一子相伝の秘法」の章があります。ここに、「守矢系譜」についての一文があります。
 実久神長は神長家独特の伝統を持つ斎戒沐浴の日常の中に祖先伝来の文献の整理に尽粋され、一子相伝の系図の中に古伝の文献を時代順に記録し、相伝の口碑をはじめて文字とし「守矢系譜」を整理している。これが世に謂う「実久系譜」である。
 この『系譜』が『神長守矢氏系譜』として諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に収録してあり、「頼實(以下頼実)」の項に以下の文が挿入してありました。前出の『高部の文化財』にある「守矢家の丸に十字の家紋」の引用元でしょうか。

[出典]
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/jintyoukan.htm



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