4・16
小笠原貞慶、家康と結び、秀吉方上杉景勝の麻績城を攻撃する。景勝、島津泰忠を遣し迎撃して破る。
弘治3年(1557)
1・20
長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃征服の暴虐を記す。
弘治3年(1557)
1・20
長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃征服の暴虐を記す。
2・15
武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。
同郡長沼城の島津月下斎、大倉城に退く。葛山衆は多く武田方に属し存続する。
天正6年(1578)
8・23
勝頼、島津泰忠・勝善寺などの軍役を定める。
天正10年(1582)
6・16
旧上杉の将直江兼続、島津常陸介に、信濃から連れてきた譜代の家臣を招集し長沼に帰住させる。
上杉景勝、安曇・筑摩二郡へ進出を計り、この日安曇郡仁科の小岩嶽城などを市川信房に宛行う。
7・13
海津城将春日信達、上杉景勝に背き真田昌幸を介して北条氏直に通じ、この日発覚して殺される。
上杉景勝、島津忠直を水内郡長沼城将とし、忠直・同忠泰らに本領と在城分の所領を宛行う。
8・5
上杉景勝、村上景国を海津城に還し、北信支配の条目を渡す。
このころ景勝、北信四郡を鎮定し、海津城将村上景国・長沼城将島津忠直に千曲川東西を統轄させ、諸城に北信諸将士を配置する。
景勝直轄地の設置は少なく間接的な支配体制をとる。
[出典]
http://sky.geocities.jp/yamanasinomori/yamanasinagano.html
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