2014年10月15日水曜日
・穂保・津野・赤沼
長沼の地は越後高田から信濃に来る北国往還の要害で、太田荘地頭の島津氏の居所だったが、武田軍攻められて大倉に退いた。信玄は3回に渡って城を修復し、半円形の馬だしを持つ甲州流の城を築き、海津城に次ぐ重要拠点となった。
武田氏滅亡後は上杉景勝の所領となったが、会津移封により廃城となった。
今は、石碑を残すのみである。
「おうま通り」を行かずに街道に戻ると、右へ直角に折れて穂保に入りしばらくゆくと再びで突き当たりとなる。
角に白壁の大きな旧家があり手前の敷地には地蔵尊が並べられている。茂みの中に傘が三段重ねの古びた庚申塔が見える。これは、三重塔により三世守られるという仏教系の庚申信仰によるものだという。中尊は三尊仏で両側面に猿が一匹ずつ見える。「長野市の石造文化財(第2集)」によると、慶安三年(1650)と古いものだ。
ここを右に曲がってすぐにまた左に折れるが、正面は守田神社である。
鳥居は西東に向いているが社殿は南に向いている。社殿正面にかつての参道らしき道が見え、長沼城の北辺であったと思われる。
守田神社となりの長沼支所にはいくつかの歌碑が立つ。 月好・雲士・春甫・呂芳といずれも「長沼十哲」とよばれた地元の俳人である。
化政期、長沼地区には一茶の門人が多くいて、中でも有力な十人は「長沼十哲」と呼ばれていた。長沼は、北信濃の俳諧の先達である善光寺門前の「猿佐」により、もともと俳諧が盛んな土地だった。
一茶との交友は文化五年(1808)年、一茶がまだ江戸在住の時代から始まり、帰省の度に長沼にも足をはこんでいた。
文化九年(1812)十一月、一茶は五十歳にして俳諧での成功と健康問題・遺産問題の両方を抱え、漂泊の暮らしを追えて故郷柏原に戻った。
その後、当時の俳諧熱とあいまって北信濃を中心に一茶社中を形成してく。中でも長沼社中は最も多勢で一茶の訪問も多く、その回数、12年間で664回に達したという。
そのほか六川に245回、善光寺に210回、高山村紫にも136回訪れている。
高山村には「一茶ゆかりの里 一茶館」があり、一茶の定宿であった久保田春耕家の「離れ」が移築されている。館員の説明では、煙草好きだった一茶は、囲炉裏端に座り、キセルをふかしながら俳句指導にあたったそうだ。
こうした巡回行脚は文政十年(1827七)に六五歳で没するまで続けられた。
かつて江戸へ奉公に出された道を、今度は当代随一の宗匠として、北国街道、川東道、神代街道を縦横に歩いた姿が想像される。
一茶は、柏原に永住する前、江戸との間を頻繁に往復しており、普通六泊七日かかるところを五泊六日で歩くなどかなりの健脚だったようだ。同行者があったときは、一茶は健脚で先行し、同行者が追いつくのを待つ、ということもあったという。
ところで、一茶年表に、文化三年(1806)十一月、「大黒屋光太夫とオロシアから帰った磯吉より体験談を聞く」とある。意外な組合せで驚いた。
「おろしあ国酔夢譚」(井上靖)・「大黒屋光太夫」(山下恒夫)では、光太夫らは帰国後、幕府から軟禁状態に置かれたのであり、一茶はどのような伝で磯吉に会ったのか。
一茶大辞典によると、一茶のパトロン的存在であった夏目成美による「随斎会」により話を聞く機会があったようだ。どんな話を聞いて、どう思ったのだろうか。大いに興味のあるところだ。
なお、ここまでの一茶に関することは、「信濃の一茶」(中公新書・矢羽勝幸)によった。
街道は、長沼支所を過ぎて丸い郵便ポストのところで再び右に曲がる。正面に秋葉社が祀られ「右 ゑちご道 左 さくば道」と道標を兼ねる。
わずかで左に曲がる枡形となって津野にはいる。
枡形を北に曲がらず直進すると妙笑寺がある。
境内には戌の満水といわれる寛保二年(1742)千曲川大洪水の水位柱がある。高さは約3メートル。現代ではちょっと考えられない規模の洪水である。 本堂の柱にはその時々の洪水水位が記録されているという。なかなか実際に見ることはできないが、長野の八幡原にある長野市立博物館に大きなパネル写真があってそこで見ることができる。
妙笑寺を後にして街道を北に行くと、いったんはりんご畑の中の道となり、じきに赤沼の街並みが見えてくる。
集落入り口の一ノ配バス停のところに、覆屋に入った二体の地蔵尊と、傘を乗せた庚申塔一基がある。向かって右の地蔵尊は享保八年(1723)で、真ん中の庚申塔は二鶏二猿で左側面に元禄の文字が見える。「酉天」から元禄六年(1693)と推定される。中尊は男根か?
さらに行くと西側にいくつかの供養等などが並ぶ地蔵堂、東側は大田神社を見てアップルライン赤沼交差点に出る。これを横断してさらに北に向かう。新幹線車両センターを左手に見て、浅川を大道橋で渡る。
・豊野
ここから豊野町に入るが、新しい道が出来ていて道の様子はおおきく変わった。
旧道は大道橋を渡って右へ入り大道橋青果店前を通って若干の登りになる。右側に馬頭観音文字碑二基を見てさらに庚申塔・二十三夜塔を過ぎると交差点となる。右折して行くと、信越線沿いに神代東町、下神代と古名がのこる地区を過ぎて当栄ケミカルの前を通って浅野に入る。ただし、飯山道の旧道は別にある。
直進するとその先は信越線線路で行き止まりである。かつては、ここには踏切があって普通に通行していた。しかたなく豊野駅跨線橋で向こう側に渡る。
豊野駅前に地蔵堂があって、その手前に「流死人菩薩」石碑がある。戌の満水で流れ着いた溺死者を弔うものだが、裏面に「大満水此処マデ湛」とあり、当時の水位を示すものとされる。この碑は10年ほど前までは多賀神社参道石段脇にあった。「戌の満水を歩く」によると、もともとは今ある場所の付近に火葬場があって石碑もここにあった可能性がある。その後豊野駅工事などにより多賀神社に移された。同書でもその時の写真・記事が載る。よって元あったと思われる場所に戻ったことになるが、その辺の経緯はわからない。
神代街道はここからは登りの斜度が増す。
すぐに左手上に多賀神社が見える。急な石段を登ったところに祠作りの庚申塔がある。二鶏二猿で中尊は猿田彦を中心とする三尊仏である。江戸初期慶安五年(1652)と古いもので長野市の指定民族資料となっている。
街道をしばらくゆくと、古民家のような豊野西町公会堂の反対側に東から来る道があるがこれが飯山道。北国街道徳間の道標「右いい山 なかの 志ふゆ くさつ道 左北国往還」で分岐して三才・南郷を経てきた道である。この交差点角には「是より右 善光寺道 是より左えちご道」の道標がある。
飯山道はここを枡形とし、少し北にいってすぐに東に折れ神代宿へ入る。
角には番所跡の碑が残る。北国脇往還神代宿は幕府から正式な宿場として指定されてはいるが、むしろ飯山道の宿場として発達したものだろう。当然、本陣・脇本陣も飯山街道沿いである。
神代街道は豊野観音堂に突き当たり、左にまいていよいよ香白坂(白坂峠)の登りにかかる。旧道は判然としないので、りんご畑の中の道を登り、とりあえず現代の白坂峠を目指す。
[出典]
http://www.ac.auone-net.jp/~yoshi_35/99_blank014.html
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