2014年10月16日木曜日
尚々、下衆廿九日風雨之きらいなくうちこし申へく候由、いかにも/\きふく可申付候、
今度当方不安弓矢にて候間、下衆こと/\くまかり立へきの由、可申付候、然者小田切左馬助子すいばらの名代つき候とて越後へうちこし候由呼候、当方のもの 越後へうちこし候事ハ、謙信代よりきふく申あハせ、たかいにこさす候、せひうちこし候ハヽ、くちおしかるへく候、ゆくゑのためにて候間理候、かしく、
ここに挙げた書状は、年月日、発給者、受給者が何れも不詳である。しかし、「小田切氏文書」にまとめられて伝来した経緯から考えて、陸奥国の大名である会津葦名氏(盛氏の養嗣子である盛隆か)が族臣の赤谷小田切氏(会津領越後国赤谷の領主)に宛てたものと考えられる。
その内容は、会津衆の小田切左馬助(赤谷小田切氏の一族か)の息子に、越後奥郡国衆の水原氏の名代(家督)を相続させることが内定するも、かつて謙信 (輝虎)と固く取り交わした約束により、会津と越後の間では養子縁組が禁じられているため、葦名氏(盛隆か)から異議が唱えられた、というものである。
よって、このように上杉輝虎(謙信)と葦名盛氏(止々斎)の代から両家の間では養子縁組を禁じる約束が固く取り交わされていたことが分かる。
ところで、この水原氏の家督相続については、天正10年に水原平七郎満家が戦死してから、文禄3年に上杉景勝の重臣である大関常陸介親憲が水原氏を継ぐ までの間、水原氏の当主は誰であったのか、はっきりしないため、あのような葦名氏の異議にも係わらず、小田切左馬助の息子が水原氏に入嗣したのだろうか。
若し、この通りであれば、上杉輝虎と葦名盛氏の後継者である上杉景勝と葦名盛隆の代に入って、越後奥郡国衆の新発田因幡守重家の反乱が勃発し、天正10 年9月の上杉景勝による新発田攻略の失敗に伴い、同10月4日の新発田勢による新発田城郊外の法生橋での追撃戦へと移り、景勝に従った水原満家らが戦死す ると、新発田重家は、隣荘の水原城を奪取していることから、その後、親しい関係にある赤谷小田切氏から水原氏の後継者を迎え入れようと図ったのであろう。 或いは、天正11年(15年とも)5月13日の上杉景勝方による水原城の奪還後に、景勝が赤谷小田切氏に申し入れた可能性もある。
『新潟県史 資料編4 中世二』 1671号 某書状 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 2445号 斎藤朝信等五名連署状(写)、2783号 安国寺建松書状、3582号 上杉景勝朱印状 『新潟県史 通史編2 中世』 『越後入廣瀬村編年史 中世編』 『戦国人名辞典』(吉川弘文館)
[出典]
http://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/c/b71b674bf7173df9185c10538e8d9299
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