2014年10月16日木曜日


「信濃国太田庄相伝系図」、嘉暦4年(1329年)3月の「北条高時下知状」によれば、幕府は輪番をもって、信濃国の御家人に諏訪社五月会・御射山の祭祀の役を勤めさせており、豊後前司忠久(島津氏高祖)、大隈前司忠時(薩州2代目)、彦三郎左衛門尉忠長(忠時孫)、弥三郎入道称阿頼祐(忠時孫)、五郎右衛門尉忠秀(越前島津氏忠綱曾孫)、左京進光忠(忠久3男忠直曾孫)らが祭祀の役を勤めていることが示されている。 承元4年(1210年)それまで善光寺の地頭であった長沼宗政が解任され、窪寺氏や原氏、諏訪部氏、和田氏の4氏が奉行となった記録がある。 興国3年康永元年(1342年)大倉郷のめぐって称名寺との間に所領を争い、長く続いた。

[出典]
http://yourei.jp/長沼宗政


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